メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

がん研究での再現性の大問題

先々週はトランプ氏が新大統領に就任したので一般のメディアは無論これがトップニュースだった。しかしがん研究者にとってはeLifeに出た"Reproducibility in cancer bilogy: Making sense of replications"が無視できない。

再現率は2/5

がん研究の再現性を検証しているのはThe Reproducibility Project: Cancer Biologyというプロジェクトだ。このプロジェクトを遂行している主体はCenter for Open Science(COS、Carlottesville、VA)という非営利団体である(注1)。

ここで取り上げられた論文は2,010年から2,012年に公表された5つで、Cell、Science Translational Medicine、Nature、PNAS、それにScienceといった一流誌に掲載されたものだ。いずれも新たな抗がん剤の候補となりうる化合物、抗体を見出した研究で、この5報の引用回数は計2,500を超えてる。これらの研究内容を再現するべく追試を行ったところ、2つは再現され、1つは再現性は明瞭ではなく、残りの2つは技術的な問題のため再現実験自体がうまくいかなかったというのだ。これら5つの研究はいずれも実験的治療のデータを出しているが、そのうちの幾つかはすでに治験が進行している。それでこれらの元の仕事の再現性については強い関心が持たれていたわけだ。

この再現性が乏しいという結果に対しては二つのタイプの反応があった。一つは医学生物学研究自体の持つ欠陥を反映しているという意見、もう一つはここで取り上げられたような高度な研究はもともと再現するのが難しいという考えだ(注2)。

”再現実験”を検証する:特に研究組織

このeLifeに公表された結果を云々する前に、この”再現実験”がどのようにして行われたかについて知る(および考察する)ことは重要だ。どこで、誰によって、さらにどのようにして行われたかということだ。いわば再現実験自体の評価である。

ことの始まりはBayer社とAmgen社が自社で開発した新薬について、その後の経過を追跡したところ、89%の高率で結果が再現されていないことを報告したことだ。これは文献的検証だった。この報告では詳細が公表されなかったので、2,013年に至り新たに設立されたCOSが新たな検証プロジェクトを立ち上げたのだ。要するにどの薬が”本当に効くのか(または効かないのか)?”を確かめようとするのだ。

COSという組織は再実験を行うための”実働部隊”を持っていないので、今回の検証ではScience Exchange(Palo Alto、CA)という営利企業と提携している(注3)。さらにScience Exchangeは必要な実験を追行可能な機関を探し、実際の業務(実験)を委託しているのだ。

CellやNatureに出たオリジナルの研究ではその分野の最先端にいる研究者たちが刻苦勉励して出したデータが載っている。しかしこの再現実験ではそれらの追試のために”委託業社”が同じことをやっているのだ。このインセンティブにおける差は如何ともしがたいものがあると思われる。実験研究では強いモチべーションは”結果をもぎ取る”ための大事な要素だ。さらに実験者の質についても大きな差がある可能性は高い。実際に最初に列挙された論文の著者らは既にその内容が複数の他の研究室でも再現に成功していると述べている。こうした意味ではアカデミアの内部ではreserach integrityは常に検証されているのだ。

だったらどうしたらよいのか? ここで結論的なこととして何も言えないのがもどかしい。こうした再現実験の必要性は認めるとしても、実際にどのようにして検証実験を行うかについては問題山積と言わざるを得ない。

 

(注1)Center for Open Scienceは2,013年にヴァージニア州に設立された非営利団体。資金を提供しているのはLaura and John Arnold Foundationという財団で、John Arnoldというヘッジファンドマネージャーの資産を基金にしている。この財団の主な活動項目が4つ挙げられているが、research integrityはそのうちの一つだ。research integrityとは”研究の完全性”とでも訳せるか。日本語にするのはとても難しいが、一つの研究がそれ自体として成立していて、訂正されたり否定されたりしない”完全なもの”だということだ。例えば”STAP細胞”の件では当然research integrityは損なわれている。再現性はintegiryを構成するための最重要項目だ。

(注2)前者の意見の例はJohn Ionnidis(Epidemiologist、Stanford UniversityCA)、後者の例は(Charles Sawyer、Memorial Sloan Kettering Cancer Center、NY)。Sawyerはイマティニブ(imatinib)を世に出した立役者の一人。こちらに関しては”身びいき”批判が出るかもしれない。

(注3)Science Exchangeという会社はcontract research organization(CRO、契約研究機関)と呼ばれる企業の範疇に属する。CROは製薬企業やバイオテック企業が自ら必要な実験や試験を実行できないときに、それを代行するような一群の企業だ。Science Exchangeは実際にはこの両者のコーディネーターとして機能している。したがって、このCancer Biologyプロジェクトというのは、プロジェクトの主体からさらに二つ離れたレベルで実験が遂行されている。

CROが米国西海岸に多く所在しているのは偶然ではなく、この地に数多くのベンチャー企業が生まれていることに起因する。これは最初は医学生物学系の分野から起こったが、現在の自動運転車の開発が同様のスタイルをとりつつあるように思う。こちらについてはあまりよく知らないのでこれ以上は書かない。

 

野球選手の時差ボケ

野球選手の時差ボケの研究がPNASに載っている。

よく知られているように、飛行機で東に移動するときと、西に移動するときとでは時差ボケの程度が違う。野球選手に与える時差ボケの影響も、西から東に移動する場合のほうが影響が大きくて、プレーのレベルが低下するというのが要旨だ。これはノースウェスタン大学(シカゴ)の仕事。UCLAの”寿司ネタ”の話とどちらがより価値があるか、評価の分かれるところだが。

北米大陸は広い。

実際合衆国本体(48州)での最大の州はテキサスだが、ここだけでフランスの面積よりも大きい(だからテキサスだけで日本の二倍以上)。初めて米国に来たときに、サンフランシスコ(SF)からボストンに飛び、二泊三日でSFにとんぼ返りした。このときは北米大陸の大きさを事前に考えていなかった。それでヘトヘトに疲れてしまった。所要時間は片道5時間半であった。写真のセントルイス(中部時間)とシアトル(西海岸時間)は時差2時間で飛行時間は4時間弱である。この距離はおよそ東京から台北に行くのに等しい。大リーグ(MLB)で最長の移動距離はボストン(東海岸時間)とサンディエゴ(西海岸時間)の間で約6時間半、時差は3時間である。こちらはだいたい東京ーホーチミン間だ。(もっともこの組み合わせはリーグが違うので毎年組まれるわけではないが。)

北米のメジャースポーツの選手たちは、ナイトゲームが終わった後にそのまま空港に行く。真夜中のチャーター機で次の場所に移動して、着いたらホテルに直行して昼まで寝る。午後にスタジアムに行って夜の試合に備えて準備する。空港の離着陸ラッシュを避けようとすると必然的に夜中のフライトになる。こういうスケジュールでシーズン中は暮らしているのだ。彼ら(それにもっと年上の首脳陣)の体力には驚嘆させられるが、やはり時差の問題は無視できないというのが今回の論文だ。

この研究では1,992年から2,011年までのMLBのデータを分析した。この間計46,535試合が記録されているが、このうち4,919に絞った。これはどちらかのチームが少なくとも二つの時間帯を越えて移動した直後の試合だ。これらの試合における、被ホームラン数、盗塁数、犠牲フライの数を調べた。

結果は東に移動したチームの成績が悪かったのだ。この移動の負荷はホーム・アドヴァンテージを覆すことも度々であった。ホームチームの勝率は全試合では53.9%だったが、東に移動したとき(つまり西から戻ってきたとき)は50.4%であった。面白いのは攻撃面のデータとして、二塁打三塁打、盗塁のいずれもが少なかった。これらはいずれも攻撃的な走塁が要求される。

結果はスポーツファン、特に野球ファンにはとても重要な情報をもたらしたわけだが、同じような研究に取り組んできた研究者からは研究方法に批判の声が上がっている。それは今回の研究が回顧的(retrospective)な方法だけで行われていることによる。そこでは研究自体が最初からデザインされたものではない。

今回紹介したような”研究”は、アマチュアでも十分実施可能なものだと思うが、自分のやっていることが、”立派な研究”として通用するかどうかを知ることは大事である。この研究手法に関する議論についてさらに詳しく知りたい方は、サイエンス誌のニュースを参照されたい。

 

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寿司ネタの半分が間違った名前で出されている

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これはおもしろいニュースだ。ロスアンジェルス(LA)の寿司レストランで出されている寿司のネタの名前が半分ほどが正しくなかったという話。

これはUCLAなどの研究者によって行われた研究でJournal of Conservation Biologyに発表された。代表者はPaul Barberという人物。この人はDepartment of Ecology and Evolutionary Biologyに所属していて、遺伝学的手法を駆使して海洋生物の生態と進化の研究を行っている。この寿司の研究が”海洋生物の生態と進化”にどのような関連があるかはよくわからないが、とりあえず楽しそうだ。

この研究は2,012年から2,015年にかけてLAにある26の寿司レストランで行われた。これらレストランはいずれもYelpやZagatなどのサイトで高い評価を受けている。寿司で用いられる10種(とされる)の魚のサンプルを大学に持ち帰り、ミトコンドリアDNAの一部をPCRで増幅し、配列を決定した。

結果は驚くべきもので、計364検体のうち47%が間違った表示であった。中で最も信頼度の高かったのはクロマグロ(bluefin tuna)でこれは一つも間違いがなかった。サケ(salmon)は約10分の1で間違っていた。オヒョウ(halibut)とキンメダイ(red snapper)に至っては調べた検体の全てが間違いであった。キハダマグロ(yellowfin tuna)も大部分が間違っていて、その多くが実際はメバチ(bigeye tuna)であった。メバチは乱獲のため絶滅危惧種となっている。

一つの店では同じ名前で三つの魚種を供していた。一般的な傾向としては表示している魚よりもより安い(低級な)魚を使っていた。(当然だ。)食品衛生上問題となるのは、似た魚がヒトに感染する寄生虫を持っているケースだ。ヒラメ(olive flounder)はこれにあたる。メバチの場合は高い水銀含有量が問題となる。

ロスアンジェルス郡の公衆衛生担当者は、この研究のことは聞いていたが直ちになんらかの対策をすることは考えていないという。

さてTake-home messageだが、”オヒョウとキンメダイはやめといたほうがいいが、サケは信用できる”となる。 

 

前日にゲノムシークエンシングの話を書いたが、この寿司ネタの場合は単に種の”同定”(探索ではない)なので、PCR→サンガーでよい。安上がりの仕事だ。

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ロスアンジェルス、郊外のファーマーズ・マーケットの海産物) 

 

象牙取引停止への中国政府の決意

中国政府は2,017年末までに国内での象牙の取引の中止を達成することを約束した。当然この決定は自然保護主義者たちに好意的に受け入れられている。年々相当な勢いでアフリカゾウが密漁されているが(年間20,000頭という)、この対策はアフリカゾウ保護における"game changer"であると受け取られている。以下このワシントンポスト紙(WP)の記事を要約し、若干私見を追加する。

中国政府の発表によると、”本年3月から象牙取引の制限を始めて、2,017年12月31日までにこれを完全に禁止する”というものだ。

これまで中国は象牙細工は中国の持つ文化であり、かつ商取引や役所との交渉に欠かせない贈り物として機能してきたと主張していた。したがってこの決定は中国自身にとっても画期的な決定と言える。記事によると、この決定に影響を与えたのは国際的な圧力だけではなく、一般の中国市民の意識の変化にも促されたという。 例えば元NBAスターのヤオ・ミン(姚明)は"stop the buying (of ivory)"キャンペーンを展開している。こうした著名人の活動により、一般の中国人の間に”象牙のためにアフリカゾウが絶滅に近づいている”という認識が広まってきた。もう一つの要素はこの象牙取引のためにアフリアでの中国の国家イメージが低下していることも挙げられる。

中国には象牙細工で生計を立てている大勢の人々がいるが、政府はこうした人達が商業的象牙細工が禁止された後も生活できるような方策も検討している。その一つの例が、各地の博物館での所蔵品の維持修理に携わる仕事に従事させることをあげている。

 

これまでアフリカゾウの総個体数は47-69万頭と推定されてきた、一般に現存するゾウの仲間はアジアゾウアフリカゾウの2種と考えられてきた。しかしアフリカゾウには実際は独立した2種があって、各々森林アフリカゾウLoxodonta africana)とサバンナアフリカゾウL. cyclotis)からなっている、ととらえられるようになってきた。このうち大きいのはサバンナアフリカゾウである。実際この両者は体格のみならず、かなりいろんな点で異なっている。現在アフリカゾウの個体数の調査は空から視認するやり方で行われている(great elephant census)。このセンサスでは2,014年に実際に352,271頭を目視により確認している。しかしこの方法では森林に棲むL. cyclotisの頭数を確認することは困難だ。L. cyclotisのほうの個体数把握とその保護が急がれる(注1)。

野生種保護の取り組みに大きな影響を与えているのがゲノム情報だ。最近の例ではこれまで1種とされてきたキリンの仲間が実際は4種であることが判明した。こうした動物種の再定義の結果、特定の種の総個体数が危機レベル程度に少なくなるケースが続出する可能性がある。要するにこれまでは生物学的実態とカテゴリーが合っていなかったわけだ。

アフリカゾウは35年前には約120万頭が生息していたとされる。このままでゆけば、今後10年間に森林アフリカゾウは絶滅すると予想されている。したがって今回のニュースはもちろんグッドニュースなのだが、こうした発信は中国共産党習近平)の政府の対外的なイネージ戦略の一貫なのであろう。特に昨年は中国の外交のかなりの部分が裏目に出たという事情が影響していると思われる。独裁国家はひとたび何事かを決定するとあとは素早い。習近平は今回の件では一部では賞賛の対象となっている。

最近中国政府の国際的な諸問題への対処で積極的かつポジティブな姿勢が目立っている。その一つの例が薬剤耐性菌への取り組みだ。この件の詳細と問題点については既に指摘しておいた。

このような中国の対策が成果を上げるかどうかについては未知数だ。今後を見守って行きたい。

これと関連するが、ナショナルジオグラフィック2,016年10月号はサイの角の取引を特集している。角が切り落とされたサイの遺骸の写真はかなりショッキングだ。記事の中でどの国が角売買に関与しているかを図示している。サイの角は漢方で使われるので、当然こちらも中国が最大の消費国である。ゾウの場合とは違い、中国政府はこちらのほうの対策はまだ打ち出していないようだ。

 

(注1)森林アフリカゾウは繁殖可能年齢への到達(23ヶ月 vs 12ヶ月)と妊娠間隔(5−6年 vs 3−4年)がいずれもサバンナアフリカゾウに比べ長期間だ。このため集団の二倍化期間が20年 vs 60年となり、一度総個体数が減るとその回復は難しい。余談ながら、こうした繁殖における性質がかなり違うにも関わらず同種と考えられてきたのも変だ。

f:id:akirainoue52:20170119063433j:plain(こちらは本文とは関係のないアジアゾウ。セント・ルイス動物園)

 

追記 2/20/17

今日のサイエンス誌のニュースガボンにおける森林アフリカゾウLoxodonta cyclotis)の個体数が予想外に少ないことが明らかとなったことが報じられている。ガボンはゾウの保護策を講じてきたにも関わらず、過去10年間に約60%減少している。象牙の需要のある限りはゾウの密猟は終わらないと結論している。

2,017年はゲノムシークエンシングが爆発する?

昨年末、サイエンス誌に昨年(2,016年)発表された最大の科学的発見が掲載された。それは”重力波の観測”だったが、別記事でそれに次ぐ9つの業績も出された。この中には京大グループによる”受精能を持ったマウス卵子のin vitroでの作成”などが含まれている。この中で私は"Genome sequencing in the hand and bush"に注目している。

以下この件について、(1) 現状、(2) 原理、(3) 特徴、利点、(4) 応用範囲、(5) 医学生物学史上の意義、(6) その他、を簡潔に述べたい。

ゲノムシークエンシングに関しては、すでにその波及効果について言及してきたが、今回の技術はこれをさらに拡大させる威力があると思う。概略を述べると、新しい原理に基づくDNA配列決定技術がいよいよ市場に出てくるらしい。これは英Oxford Nanopore Technologies社が開発したものだ。名前のとおり、ナノポアシークエンシングと呼ばれる技術を商品化したのだ。既にベータテストも終了し、いよいよ市販されるということだ。実際ウェブサイトに行ってみると、価格も表示されている。

その原理をきわめて大雑把に説明すると、絶縁膜上に作られた微小な穴、これはだいたい直径1 nm程度のものだが、この膜を挟んでDNA分子を電気泳動してやる。そこをDNA分子が通過する際に各ヌクレオチド(塩基)が電流を阻害する。この阻害の程度は各ヌクレオチドによって異なるので、それを一個ごとに順番に検出することによって塩基配列がわかるというものだ。上記Oxford Nanopreのサイトに原理を解説した動画がある。この会社は正確にナノポアを作りかつ電流を検出する技術を確立したのだ。

これまでに普及してきたシークエンサーのほとんど全てがSanger法またはそれの応用であった(注1)。ナノポア法ではこれと全く異なる原理に基づいている。この方式の利点のひとつは断片化していない長い核酸分子が読めることだ。そのためコンピューター上での複雑なプロセスを省略できる。つまり大きなコンピューターが不要である。Sanger法のような酵素反応ではないのでRNAも読める。さらにOxford Nanopreはこれをポータブル化してTVのリモコン程度のサイズにしている。値段も安い。ポータブルなのでフィールドワークの現場でも使える。

この方法の実用性については、すでに多数の論文がプレプリントサーバー"bioRxiv"上に掲載されていて、十分使用に耐えうることが実証されている。過去10年間にイルミナなどのnext-generation sequencingは医学生物学のあらゆる領域に応用され、かつ一部の領域を爆発的に進歩(ないし進化)させつつある(注2)。しかしこうした研究の展開も、シークエンサーが高価であること、大型のコンピューターが必要であること、さらには配列を解析するための要員が必要であることから、限られた研究機関でしか実施されてこなかった。ナノポア技術が普及することにより、少数のトップ(金持ち)研究機関に独占されてきたゲノム解析がより広く開放される。これで第三次ゲノム時代が到来すると私は予想している。

 

我々はこれまでに、医学生物学研究の歴史上”素人化”と呼ぶべき現象が何度も出現してくるのを見てきた。素人を巻き込み、その裾野を広げる。その結果としてより分厚い研究成果がもたらされる。典型的にはPCRの出現によって、これまで大腸菌を使わなけれできなかった分子生物学的研究が医師などの”素人”に解放されたことが挙げられる。その結果、膨大な量の疾患関連遺伝子のデータが生み出されたのだ。

今回のナノポア技術も、新たな”素人化”をもたらす可能性が大いにある。さらに費用的な面からもメリットが大きいので、研究の発展途上国でもゲノム解析が十分可能になると予想される。ゲノム研究で出遅れた日本の医学分野でもキャッチアップが可能になると思われる(注3)。

最後にこの画期的な技術が英国から出てきたことにも着目したい。ワトソン、クリックの二重螺旋の発見はともかくとして、分子生物学的発見とその研究手法のほとんどすべてが米国から出てきている。この英国発の新技術という事実は大きい。英国の人口は日本の1/2、米国の1/5程度にしかすぎない。にもかかわらず、科学の分野で揺るぎない地位を保っている。最近米国の研究者に与えられた科学分野でのノーベル賞の多くは、実は英国出身者で占められていることは重要である(注4)。最近のシークエンシング技術をとってみても、そのほとんどが米国特にカリフォルニア州から出てきている。組み換え型ネッタイシマカの例など、英国では大学発のベンチャーが開花してきている。英国では金融以外の産業が滅んでしまったという認識が定着しているようだが、21世紀型の産業が起こりつつあるように思う。こうした英国の実力の理由については検証される必要がある。

さらに最後になるが、これで益々ゲノム情報のプライバシー保護が困難になるであろうことも追加しておく。

 

(注1)この事実はいかにSanger法が優れていたかを示すものだ。実際先行するMaxmam-Gilbert法は完全に廃れてしまった。30年間もシークエンシングの王座についていた事実は後に歴史に記載されるであろう。

(注2)医学分野ではがんのゲノム解析、微生物叢の研究、およびあらゆる疾患における遺伝子発現パターンの把握。より基礎的な分野では生物分類の見直しや進化学への貢献。さらには歴史学、考古学への貢献と、次世代シークエンシング技術はあらゆる分野で用いられている。

(注3)比較的最近書いた記事ではドラッグスクリーニングにおける”ド素人化”について論じた。

(注4)このことは実は、米国の教育システムや研究者育成法にある何らかの欠陥を暗示している。しかしこれは簡単に手に負える問題ではない。ゆっくり考えてみたい。本当は英国のシステムを見る必要があるのだが。

テロメア維持の機構:(5)テロメア姉妹染色分体交換(T-SCE)

 (前回から続く)

T−SCEに限らず、テロメアという特異なゲノム領域を追求する手法には研究者の知恵が込められている。テロメア姉妹染色分体交換(telomere sister-crhomatid exchange、T-SCE)について少し考察したい。

生細胞中のゲノム変異を追求する方法

生細胞のゲノム上での変異頻度を求める実験手技は限られている。古典的にはHPRT遺伝子の失活頻度をもって遺伝子変異率を求めるやり方だ。HPRT遺伝子はプリン体のサルベージ経路の代謝酵素で、この遺伝子が失活していてもふつう培養細胞の増殖には影響しない。そこでHPRTのみによって代謝経路に入って細胞を殺す(自殺基質)ヌクレオチド類縁体(例えば6-thioguanine, 6-TG)を利用することができる。6−TGの代謝産物は細胞内で強い毒性を示すので、6−TG存在下で増殖してくるのはHPRT遺伝子が失活した細胞のみである。このことにより全細胞数(コロニー数)のうち6−TGに耐性の細胞数(コロニー数)の割合を求めることにより変異頻度が求められる。さらにここから得られた6−TG耐性細胞クローンのDNAを解析することによりその際生じた突然変異やDNA修復のしかたが解析できる。

現在は第二次ゲノム時代である。さらにこれがナノポアシークエンシングの登場によって今年のうちに第三次ゲノム時代に突入することが予想される。要するに機能があろうがなかろうがゲノム上のDNAの配列を全て読み込んでしまうことで、全ゲノム上の変異頻が求められるようになてきた(注1)。こうした実験の効率が飛躍的に向上しようとしている。こうなると、上に挙げたような”機能喪失”を手段とした変異頻度の算定は不必要になってゆく可能性が高い。

しかしこうした配列変化を読み取ることに抵抗するゲノム領域がある。それは繰り返し配列である。同じ配列、または同じような配列が多数回繰り返している領域では、それらの関与するゲノム変化を読み取ることは困難である。テロメアはこうした”難しい”領域に属する(注2)。

姉妹染色分体交換(SCE(この項は読み飛ばしても良い)

まずはT−SCEの前にSCE

SCEは相同組み換えによるDNAの修復頻度をうかがい知ることができる手法だ。姉妹染色分体(sister chromatids)とは染色体のDNAがS期で複製されたものが、その後の細胞分裂時に凝縮して観察可能になったものを指す(写真下左)。もともとG1期で1コピーだったものがS期では2コピーに複製されるので、これら姉妹染色分体は”過誤がなければ”全く同じものである。

しかしゲノムDNAは常になんらかの”傷”を負い、そのほとんどすべてはDNA修復システムによって正しく直される。この修復装置の中には本シリーズでたびたび登場してくる相同組み換え(homologous recombination、HR)がある。HRは最も信頼性(fidelity)の高い修復機構であり、特に染色分体どうしでのHRは両者の塩基配列が全く同じなのでその痕跡を残さない。このことは研究者にとっては厄介なことであり、HRが起こったことを識別・定量することはほとんど不可能だ。

In vivoでのHRの検出(他の多くの手法と同じく実際には事後検出)を可能にした唯一の方法が姉妹染色分体交換(sister-crhomatid exchange、SCE)だ。この手法自体は早くも1,956年に開発されている(注3)。しかし組み換えの頻度が安定して計測できるようになったのは改良型が出現してからであった。簡単に方法を言うと、BrdU存在下で二回細胞分裂させた後染色体を調整する。これをHoeschst 33258で染色した上で蛍光顕微鏡化で観察する。これによって染色分体が分染される。さらに改良されて現在ではギムザ染色での普通の顕微鏡下でも観察できるようになった(写真下右)。

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これによって染色体標本上で染色分体間でのDNAの組み換えが検出できるようになった。例えばマイトマイシンCなどの処理によりSCEの頻度が上昇する。SCEはきわめて高感度であり、染色体の構造異常が全くみられないような薬剤濃度でもSCEが上昇していることが多くみられる。このため変異原性試験などにも加えられている(注4)。

テロメア姉妹染色分体交換(T-SCE)検出法の確立

テロメアでも姉妹染色分体交換が起こるはずである。ところが分染されたテロメアの交換の検出は極めて困難である。その理由はテロメアが短く、かつ末端に存在するからだ。

この問題を手法的に解決したのはMichael Cornforthのグループで、テロメア配列のG-rich strand [(TTAGGG)n]とC-rich strand [(CCCTAA)n]の各々を特異的に認識する蛍光オリゴプローブを用いることによって実現した(2,001年)(注5)。これはいわゆるCO-FISHの応用で、Chromosome orientation fluorescence in situ hybridizationの略だ。

テロメアのCO-FISHは簡単に言うと、S期で新たにできた新生鎖を選択的に破壊することによりG-rich鎖とC-rich鎖を区別して染色する。これによりテロメアでの染色分体が分洗される。普通(TTAGGG)6と(CCCTAA)6の配列をもつオリゴヌクレオチドを各々赤と緑の蛍光色素でラベルしてやることでこの分染は可能となる

染色体標本で観察できる染色体はM期のものだ。各染色分体は二本鎖DNAからなっているが、その片方の鎖は直近のS期におけるDNA複製で作られたものだ。こうしてできる新生鎖の破壊は細胞をBrdUとBrdCでラベルすることで可能となる。前者はG−rich鎖に、後者はC−rich鎖に取り込まれる。これらのヌクレオチドを取り込んだDNA鎖は長波長紫外線処理の後にエクソヌクレアーゼ処理すると破壊されてしまう。そこで残った鋳型鎖をFISHで検出する(図参照)。各分体のテロメアは片方が緑、他方が赤のシグナルを発する。これらのテロメア分体間での組み換えが起こると、緑の部分と赤の部分が隣接することになる。これは実際は顕微鏡下で黄色のシグナルとして認識される(注5)。

このようなCO-FISHの手法によってALTでのT−SCEの上昇を明らかにしたのはReddelShayの二つのグループだ(2,004年)。ALT細胞ではテロメア断片が別の染色体に”飛ぶ”ことを述べたが、T−SCEの上昇はALTがHRに基づいた現象であることをさらに示すものとなった。

 

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(テロメラーゼ陽性細胞(HeLa細胞)では対角線上パターンにシグナルが出る(白矢印)。ALT細胞(SAOS2細胞)では高頻度で姉妹染色分体の両方のテロメアにシグナルが観察される(黄矢印)。二色プローブのCO-FISHの写真は手元にはない。)

 

続く

 

(注1)このナノポアシークエンシングのインパクトに関しては近々議論することにする。

(注2)他にはセントロメア、およびその周辺、あるいはrDNAがある。

(注3)これはヒトの正常染色体数が確定した直後のことである。

(注4)”変異”(または”突然変異”)とは、DNAが物質として何らかの傷(損傷)を受け、それらが修復された結果元とは異なる配列としてゲノム上に固定されたものを指す。(したがって仮に変異があっても物質としてのDNAは正常なものである。)SCEはこうした元とは異なる配列や構造を検出するものではないので厳密には”変異”を検出しているわけではない。染色分体間の組み換え現象の頻度を観ているのだ。

(注5)当然G-rich strandを認識するプローブは(CCCTAA)6、逆にC-rich strandを認識するプローブは(TTAGGG)6である。これらを各々Alexa Fluor 488(緑)や555(赤)のような蛍光顕微鏡下で鑑別可能な蛍光色素で標識したものを用いる。

CO-FISHの発明者は私の知る限り、Cornforthグループだと思う。

(注6)実際のオリジナルの方法は片方のプローブだけを用いている。これだと片方の染色分体テロメアしか染められない。分体間の交換があると、両方の分体に同じ色のシグナルが出る。

 

 

 

ジフテリア治療薬の枯渇

昨日号のサイエンス誌に"Life-saving diphtheria drug is running out: Two children's deaths in Europe spur search for new sources of antitoxin"という記事が出ている。欧州でジフテリア抗毒素血清の不在によって子どもが死亡したという事例だ。

先進国ではジフテリアという病気は稀となっている(注1)。それは効果的なワクチンが存在するからだ。しかしこの死亡した3歳児の家族はチェチェン共和国ロシア連邦)からベルギーに移住していて、この女児はジフテリアワクチンの接種は受けていない。しばらく前ならばこの女児は抗生物質と抗毒素血清の治療を受けられたはずだが、現在ジフテリア抗毒素血清はベルギー国内はもとより全欧州でも十分な量がない。医師らは欧州疾患予防管理センター(ECDCストックホルム)に問い合わせた結果、来院から6日後にオランダから抗毒素血清が到着した。しかしもはや手遅れで女児は死亡した。

欧州でのジフテリアの発生は稀である。しかし近年のワクチン接種率の低下によって様々な”古典的”感染症の危険が高まっている。実際2,015年にもスペインで子どもが発症し死亡している。WHOはウマを免疫して作るジフテリア抗毒素血清を必須薬品に指定している。しかしその市場規模があまりにも小さいため、企業が消極的なのだ。ウマを用いることにも反対論があり、細胞培養による抗毒素抗体の生産の試みも大学などで始まっている。これらはPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)から資金的支援を受けたものだ。細胞培養による生産では、純度が高くヒト型の抗体を得ることができる。動物愛護の問題もさることながら、こちらのほうが質的にも望ましいことは明らかだ。

ジフテリア抗毒素血清はベーリングによってその効力が確かめられた。これによりベーリングは1,901年の(第1回)ノーベル医学生理学賞を受けた。その後ワクチン(DPT)接種により発生数が劇的に減少した。このためジフテリア抗毒素血清の生産は減り続け、欧州では現在ブルガリアの一社のみによって生産が続けられている。欧州外ではロシア、インド、ブラジルで生産されているものの、血液製剤への厳しい輸出入規制のため国外で簡単に入手することはできない。

こうした状況は米国も例外ではなく、1,997年以降国内で認可された生産業者によって作られたものはもはや存在していない。それでも年間3例程度の需要があるので、ブラジルの研究所からInvestigational New Drug(IND)の名目で輸入されたものを使用しているのが実情だ。要するに名目は研究薬だ。

細胞培養による抗体生産を行っている施設の一つがMassBiologicsマサチューセッツ大学の一部)。これまで上記PETAの資金援助を受けていたが、ヒトへの投与の段階(つまり治療試験)では支援打ち切りとなってしまった。その理由は明らかで、これまでの段階よりも多額の費用を要するからである。”多額”といっても必要な費用は1,000万ユーロ(12億円程度)というから大した金額ではない。

この”市場規模”の問題は世界の公衆衛生の最大の敵である(注2)。この記事で明らかにされたのは、この”市場規模”の問題が途上国のみならず、先進国でももはや無視できないということだ。

 

(注1)ジフテリアはグラム陽性桿菌Corynebacterium diphtheriaeジフテリア菌)によっておこる上気道粘膜疾患。国立感染研のページに概要がよくまとめられている。これをみるとジフテリアとその類縁疾患も、他の多くの感染症と同様に動物(特に家畜)が感染源になりうることが記載されている。

(注2)このことは最も感染症の脅威に曝されている熱帯地域の国々での公衆衛生に現れている。さらに先進国も含んだ典型的かつ深刻な問題として、製薬企業の抗菌物質開発への消極性があげられる。このことについては何度か議論している