メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

ジフテリア治療薬の枯渇

昨日号のサイエンス誌に"Life-saving diphtheria drug is running out: Two children's deaths in Europe spur search for new sources of antitoxin"という記事が出ている。欧州でジフテリア抗毒素血清の不在によって子どもが死亡したという事例だ。

先進国ではジフテリアという病気は稀となっている(注1)。それは効果的なワクチンが存在するからだ。しかしこの死亡した3歳児の家族はチェチェン共和国ロシア連邦)からベルギーに移住していて、この女児はジフテリアワクチンの接種は受けていない。しばらく前ならばこの女児は抗生物質と抗毒素血清の治療を受けられたはずだが、現在ジフテリア抗毒素血清はベルギー国内はもとより全欧州でも十分な量がない。医師らは欧州疾患予防管理センター(ECDCストックホルム)に問い合わせた結果、来院から6日後にオランダから抗毒素血清が到着した。しかしもはや手遅れで女児は死亡した。

欧州でのジフテリアの発生は稀である。しかし近年のワクチン接種率の低下によって様々な”古典的”感染症の危険が高まっている。実際2,015年にもスペインで子どもが発症し死亡している。WHOはウマを免疫して作るジフテリア抗毒素血清を必須薬品に指定している。しかしその市場規模があまりにも小さいため、企業が消極的なのだ。ウマを用いることにも反対論があり、細胞培養による抗毒素抗体の生産の試みも大学などで始まっている。これらはPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)から資金的支援を受けたものだ。細胞培養による生産では、純度が高くヒト型の抗体を得ることができる。動物愛護の問題もさることながら、こちらのほうが質的にも望ましいことは明らかだ。

ジフテリア抗毒素血清はベーリングによってその効力が確かめられた。これによりベーリングは1,901年の(第1回)ノーベル医学生理学賞を受けた。その後ワクチン(DPT)接種により発生数が劇的に減少した。このためジフテリア抗毒素血清の生産は減り続け、欧州では現在ブルガリアの一社のみによって生産が続けられている。欧州外ではロシア、インド、ブラジルで生産されているものの、血液製剤への厳しい輸出入規制のため国外で簡単に入手することはできない。

こうした状況は米国も例外ではなく、1,997年以降国内で認可された生産業者によって作られたものはもはや存在していない。それでも年間3例程度の需要があるので、ブラジルの研究所からInvestigational New Drug(IND)の名目で輸入されたものを使用しているのが実情だ。要するに名目は研究薬だ。

細胞培養による抗体生産を行っている施設の一つがMassBiologicsマサチューセッツ大学の一部)。これまで上記PETAの資金援助を受けていたが、ヒトへの投与の段階(つまり治療試験)では支援打ち切りとなってしまった。その理由は明らかで、これまでの段階よりも多額の費用を要するからである。”多額”といっても必要な費用は1,000万ユーロ(12億円程度)というから大した金額ではない。

この”市場規模”の問題は世界の公衆衛生の最大の敵である(注2)。この記事で明らかにされたのは、この”市場規模”の問題が途上国のみならず、先進国でももはや無視できないということだ。

 

(注1)ジフテリアはグラム陽性桿菌Corynebacterium diphtheriaeジフテリア菌)によっておこる上気道粘膜疾患。国立感染研のページに概要がよくまとめられている。これをみるとジフテリアとその類縁疾患も、他の多くの感染症と同様に動物(特に家畜)が感染源になりうることが記載されている。

(注2)このことは最も感染症の脅威に曝されている熱帯地域の国々での公衆衛生に現れている。さらに先進国も含んだ典型的かつ深刻な問題として、製薬企業の抗菌物質開発への消極性があげられる。このことについては何度か議論している