メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

警官の暴力について:銃社会をどうやって脱却するか?

報道されている通り、5月25日に黒人のGeorge Floyd氏が警官の過剰な行為により死亡した。これはミネソタ州ミネアポリスでのできごとだ。動画で流布されている通り、この事件はひどい。抗議デモが全米のみならず、世界各地で行われ、今のところ止まる気配はない。既に数多くの意見、論評がネット上に公表されているので、ここでは重複をさけ、あまり論じられてこなかった観点から私見を述べることにする。

 

米国の警察官の過剰な取り締まりの元凶は、この国が銃社会であることによる。これが私の考えだ。

 

仮に被疑者が銃を持っていて反撃してくれば、そこに複数の警官がいても死傷が出ることは免れない。これを防ぐためには反撃の可能性のある被疑者の扱いは過度に暴力的にならざるをえない。これが米国の警官と被疑者の関係だ。

こうした事件は毎年全米各地で起こっているが、今回のように社会(および世界)の注目を集める事件はほんの一部だ。実際にはさらに多数のケースが起こっている。きわめて重要なポイントは、こうした事件の訴訟経緯だ。明らかに警官側の過剰な取り締まりであると思われる場合でも、当事者である警官のほとんどは起訴されない。仮に起訴されても有罪判決が下されることはありえない。そこには長年にわたって培われてきた白人中心社会の構造的な歪みがあるが、このこと自体に深入りするのは本論の目的ではない。

社会に広く銃が流布してることが、いかにこの社会を歪めているかについて、米国人は全く無頓着だ。例をあげよう。

ある住宅地で低所得者層(多くは黒人、ヒスパニック)の割合が上昇するとどうなるか。そこに住んでいる高所得者層(多くは白人)の住民はより郊外に移住する。そこで再び高所得者層の住民と共に暮らそうとするのだ。これは何故か? 理由はいくつか挙げられるが、その最大の理由は銃による犯罪から逃れるためだ。これは生命に関わるので逃げ出さざるをえない。

幸か不幸か米国では新規住宅地を開発するための土地が十分にある。このため都市は際限なく広がり、中心に近いところはスラム化する。米国を旅行した人ならば誰でも気づくことがある。それは一部の例外を除いて、都市は中心のビル群の街区(ダウンタウン)の外側にかなり広大な荒廃した市街地が広がっている。こうしたどこにでも見られるドーナツ状のスプロール化は、人々の自動車による通勤距離を延長し、さらに公共交通機関を無力にする。

多くの米国人はこの現象が特におかしなこととは考えていないようだ。このような都市のありかたは、人々の社会性に関する歪な常識の形成に寄与している。米国人はもともと欧州の各地域に定住していた人々を起源としている。しかし上に述べたような住宅のありようは、人々にノマド的性格をもたらす。核家族ごとのノマドだ。この国では地域のコミュニティが形成されないのだ。例外的に貧困地域に定住している黒人をはじめとするマイノリティには強固な地域コミュニティーが存在している。そこでは路上で子供たちが遊んでいる。この子供たちのほとんどが高卒で終わるか、高卒にすら届かない。貧困の再生産だ。

私はカナダの都市にも行ってみたが、そこには米国で見たような都市のドーナツ化を見ることはできない。都市はごく自然に高層ビル街、低層住宅地、庭付き住宅と広がってゆく。その広がりは無際限ではない。

米国とカナダの違いは何か? 銃である。

今回の醜悪な事件の背景にあるのは銃だ。この種の事件を防ぐために必要なこと、それは民間の銃の撤廃である。被疑者が銃を持っている可能性がなければ過度に暴力的になる必要はない。そう、カナダや日本のようになれば良いのだ。そう考えたとき、そこには解決策がないことがわかり、暗澹たる気分になる。我が国の民間(および潜在的対抗勢力)の武装解除豊臣秀吉による”刀狩り”が有名だが、徳川時代に完成した。”刀狩り”が可能なケースは何か? それは秀吉や徳川のような圧倒的に強力な権力が国内に成立したとき、または国(地域)全体が外国勢力によって占領されたときだ。

だからこの国が武装解除される可能性は限りなくゼロに近い。警官のメンタリティも変わらない。

 

暗澹たる気分だ。