メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

『人類の起源』を読む:記録なき歴史学の誕生?

 篠田謙一著 ”人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」"(中公新書)を読む。国立科学博物館館長の篠田謙一博士による人類の起源を解説した新書である。本稿では読後の雑感を記す。

 これは”記録なき歴史学の到来”を宣言する書物か?

 本書は新書版なので分量は限られるが、内容はとても濃い。人類進化の最近の知見のほとんどは21世紀になって勃興したこの分子人類学(Molecular Anthropology)の手法によるものだ。この20年間の知見の集積により人類進化に関する見方に革命が起こったと後世評価されるであろうし、既にそのように考えられている。本書の中で著者が何度も言及している通り、今世紀になって出現した次世代シークエンサーにより、巨大なヒトゲノム(3.300億塩基対/ハプロイドゲノム)が解読可能になった。しかし古い人骨に含まれているDNAは当然化学的に相当傷んでいるわけだが、こうしたDNA検体の解読を可能にしたのは、一昨年ノーベル賞を受賞したスヴァンテ・パーヴォ(Svante Päävo)である(1)。パーヴォはネアンデルタール人の骨から抽出されたDNAからゲノム配列を決定し、驚くべきこと明らかにしたのである。それは現生人類とネアンデルタール人が交雑していたという事実であった。ネアンデルタール人に由来するゲノム配列は、アジア人、欧州人ともに2%程度の頻度でゲノム上に存在する。この発見から、原生人類が成立する過程で我々の祖先が遭遇した旧人と交雑することによって現在のようなゲノム組成が形成されたと考えられるようになる。これは人類の存在に対する見方そのものにも大きな影響を与える発見であり、科学の境界を超えた大きな発見であった。

 本書の章立てを紹介する。1. 人類の登場 ⒉ 私たちの隠れた祖先 ⒊ 「人類揺籃の地」アフリカ ⒋ ヨーロッパへの進出 ⒌ アジア集団の成立 ⒍ 日本列島集団の成立 7. 「新大陸アメリカ」へ 終章.  我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ向かうのか 以上となっている。

 一通り読み終わってみたが、やはり一番面白かったのは日本人を扱った第6章であった。人の認識が近くのことに最も鋭く反応し、遠くなるにつれて同心円状に鈍くなっていく以上これは仕方がない。通説では、日本人の基層は狩猟漁労民の縄文人で、そこに弥生時代になって大陸から農耕民が流入してこの両者の交雑により現代日本人が形成されたというものだ。私もそのように理解していた。今の技術を用いて現代人のゲノム中の縄文人の要素が定量化できるわけだが、沖縄では30%、北海道(アイヌ)では70%、それ以外の本土では僅か10%にしか過ぎないという結果であった。年代測定によって縄文時代に生きていた人の骨の特徴が縄文人の特徴というわけだ。この結果、すなわち縄文人的要素がおそらく人々が漠然と考えていたよりも、かなり低い値であったであろう。この結果から著者は特に本州の現代日本人の起源は主に大陸(特に朝鮮半島)から渡来した人々であるとする。但し、稲作農業の方が狩猟漁労に比べて圧倒的に人口涵養力が高いので、現代日本人の縄文的要素の低さは、必ずしも半島からの流入人口の多さを反映するものではないことに留意する必要があろう。私にとって、大変興味深かったのは北九州の福岡県、佐賀県の平野部から出土した弥生時代の人骨は、弥生人の特徴を強く持っているのに対して、佐賀県長崎県の主に玄界灘に面した海岸地域、この辺りは山地が海に迫り、あまり農耕に適した土地ではない。弥生時代にこういった場所に住んでいた人々は縄文的特徴を強く備えていたというのである。一昨年のことになるが、福岡県、佐賀県長崎県を巡り、”縄文的”地域に魅せられた体験があったので、この辺りはさらに興味深く読むことができた。この縄文的特徴を持った人々の分布は、後に隠れキリシタンが多くいた場所である。さらに成人型T細胞白血病の分布とも一致するように思えた。検察してみると、そのような研究発表が既になされていることに気づいた(http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/37724127.html)。もう一つ面白かった記述として、アイヌの由来のことがある。アイヌは現代の日本列島に住む人々の中では最も縄文的要素(70%)を持つ人々である。しかし本州を起源とする日本人と様々な割合で交雑が進んでいるという。しかし面白いことに、ある一定程度の割合で沿海州などの大陸のモンゴロイドとの交雑も認められるという。この点南西諸島の人々に台湾原住民やフィリピンの人々からの遺伝子流入が認められないことと好対照であった。

 本書の中身の話はこれぐらいにして、以下関連する書物について言及しておく。出アフリカに関しては気候要因を加味して説明している書物がああるので、興味がある方はご一読することを勧める(2)。ユーラシア大陸の民族の興亡の歴史を述べたのは「世界史の誕生」だが(3)、本書第5章の内容とリンクして解説するような書物が出てきてくれたらこれまたありがたい。もうしばらく待つ必要があるかもしれないが。終章のタイトルはエマニュエルトッドの近著のタイトル(4)とよく似ているので思わず苦笑せざるを得なかったのだが、畢竟人間に関わる学問は本質的にこの問いへの答えを得ようといて日々努力しているのであろう。

 最後になるが、この書は”記録なき歴史学の到来”を告げていると私は感じたのである。文字による記録がない場合は、物から過去に起こった出来事を推定することが行われる。これは考古学である。ところが、現代のゲノム解析技術と年代測定法をもってすれば、文書による記録がなくとも人々の移動や絶滅などが継時的に把握できるわけだ。さらに本書で述べられているように、DNAから近縁関係が判定できるので、集落の規模や婚姻の在り方などもある程度わかるようになってきている。実はこれは伝統的にエマニュエル・トッドのような文化人類学者がカバーしている領域で、ついに自然人類学と文化人類学が融合しようとsている。こうした以前には考えられなかったことが起こりつつある。

 本書の魅力は尽きることがないので、ぜひご一読することをお勧めする。

 

(1)Päävoは一般にはペーヴォと呼ばれている。これはPäävoが長くドイツで研究活動を続けているので、ドイツ語読みとしては自然だ(但しドイツ語には同じ母音が続く単語は本来存在しない)。私が直接スウェーデン人に確認したところ、日本語発音としてはパーヴォと表記するのが自然だと思う。

(2)"Origins: How the earth made us", by Lewis Dartnell, 2018. Bodley Head 

(3)世界史の誕生岡田英弘著、1992年(筑摩書房

(4)「我々はどこから来て、今どこにいるのか?:民主主義の野蛮な起源」エマニュエル・トッド著、2022年(文芸春秋社

科学と社会の関わりについて考える

ものすごく大きなタイトルだが、これが私が常々考えていることなのだ。まあブログのサブタイトルとほぼ同じなのだが。今回の”学術会議”のアホらしい事件に火をつけられてしまったので、少しづつ文章にしてゆきたい。

 

社会は科学(技術も含む)とどう付き合ってゆけば良いのか? 科学が人々の生活を向上させてきたのは歴史的に紛れもない事実である。だから人々は社会に導入された技術を受け入れて使ってゆけは良かったのだ。

しかし今日、多くの分野で人々の生活を根本的に変えうる技術が使われ始め、このまま行くと人類が破滅する可能性すらでてきている。今回のコロナウイルスが人工物かどうかは今のところ不明だが、人工的に作られたウイルスが世界を破滅させる可能性が十分に示されたことで、科学史的にはもとより、人類史的には大きな意味がある。しかしこれは一つの例に過ぎない。

今日、科学(技術)の研究に携わる人口が飛躍的に増加し、先駆的発見が実地に応用される過程が格段にスピードアップしている。

一方、これを受け入れる側、最終的には一般の人々だが、人々は自らの理解力をはるかに越えた新技術を主に商業的手段によって受け入れさせられている。それをマニュアルに従って使いこなしているわけだ。

この社会への新技術の導入を媒介するのは政府の政策だが、これを世間に知らしめるのはメディアの役目である。しかし大手メディアの科学リテラシーはほとんど小学生レベルだ。政府のレベルはもう少し高いかもしれないが。

 

要約すると、研究者の層は年々厚みを増しているが、研究の成果である新技術を受け入れる一般の人々、さらにそれを媒介する政府、報道の側の科学的知識は一向に増加していないのだ。

今日のように、生活のあらゆる分野で新しい技術が導入され、日常的に使われていても、社会全体としては一向にその本質的部分についての理解が全く進んでいない。

問題はトラブルが生じたときに起こる。日本ではこうしたトラブルとして、東日本大震災原発事故、子宮頸癌ワクチン、あるいは今回のコロナウイルス流行が挙げられる。こうした災害、事故に際して、政府、メディアはどのように行動し、そのことが人々の生活にどのように(悪い)影響を与えたのだろうか?

 

およそあらゆる知的作業は[情報収集 → 分析 → 現状把握 → 対処法の考察]という流れで行われる。社会と科学の関わるについてどのような研究がこれまでなされてきたか、私自身の怠慢により、実際のところよく知らない。しかし上述した事例における政府や報道機関の不適切な行動については詳細な分析がある。

一方、こうした事例をなくするようにするにはどのようにしたらよいのか(対処法の考察)? この問いについて、個々の事例を越えて社会の構造を知的に強靭化するための方策が提言される必要がある。

しかし、例えば”学術会議”(この名称は本当に好きになれないのだが)のような学者の団体が、こうした大問題について、継続的に議論し、提言するような活動をしているとはとても思えない。少なくとも、”軍事研究の禁止”とか”戦争法案反対”とかいう小さな問題を中心に据えるべきではないと思う。これらの問題も国の政策に与える影響(しかも負の影響)は大きなものだが、少なくとも21世紀的な知的大問題ではない。

今日的大問題は”軍事研究の禁止”とか”戦争法案反対”とかではなく、著しく肥大化した科学・技術と相変わらず低空飛行を続けるそれ以外の部分との解離から生じている。専制的国家による科学・技術の悪用なども、こうした問題意識の延長線上にあるかもしれない。

 

こうした諸問題について、私自身少しずつ勉強しながら書いてゆきたい。言い訳がましいが、今本業が忙しいのであまりペースは上げられないが。

 

 

CRISPRと学術会議

lようやくCRISPRの研究者ノーベル賞を授与される。

これと日本学術会議とはまるで無関係にようだが私の中ではつながっている。

 

CRISPR/Cas9を用いるとゲノム編集が効率良くできることがわかって以来、人々はその応用範囲と有用性にすぐに気がついた。

だからこの技術は医学、生物学、農学、畜産学などおよそあらゆる分野で応用が期待され、かつゲノム編集された生物が作出されてきた。しかしこの技術の持つ危険性もすぐに認識された。その応用範囲の中で最も危惧されたのは、ヒトのゲノムの編集、殊に生殖細胞系列のゲノム編集であった。その問題点は二つの点に集約される。一つは技術が未成熟であることによるゲノム編集の不正確性で、いわゆるオフターゲット効果だ。これは標的とする遺伝子ではない遺伝子に予期しない変異が導入される可能性だ。もう一つは、ヒトゲノムを編集して何らかの能力を賦与しようとする試みだ。典型的にはデザイナー・ベビーといわれるような子供を持とうとすることだ。いずれも社会的、倫理的に大きな問題を孕んでいる。

かつて組み換えDNA技術が開発された時には研究者たちはその潜在的危険性を想像して戦慄を覚えたのだった。そのためその技術の実施を凍結して、実施のための条件を討論したのだ。これをアシロマ会議といい(1975年)、”物理的封じ込め”の合意を得る。これが各国の実験指針の基礎となった。

さてCRISPR/Cas9の問題点についても、1995年12月ワシントンDCでサミットThe International Summit on Human Gene Editing)が開催された。このサミットに参加したのは約500人の研究者、科学倫理の専門家、臨床家、法律家などで20ヵ国以上の国から参加をみた。これを主宰したのは米英中の科学アカデミー4団体だ(The National Academy of Sciences, National Academy of Medicine, Chinese Academy of Sciences, and the Royal Society of the UK)。残念ながら、この会議では特別な指針のようなものは採択されるには至っていない。もう少し詳しく知りたい方は、私自身のブログ記事を参照されたい。そこからオリジナル記事に行けるので。

私はこのニュースを目にした時、”日本の科学団体は一体何をしているのだろうか”という憤りを含んだ疑問を感じたことを覚えている。米英はともかくとして、最近ノーベル賞を高頻度で受賞している日本は? 

日本の科学団体とは”日本学術会議”か”日本学士院”をおいて他にない。最近の学術会議のニュースを見るにつけ、未来を見ようとしない学者たちの巣窟は早急に解散するべきだと強く思う。すべての学問は未来を見るための営為なのだ。

 

蛇足ながら、今回の受賞者の一人、Emmanuelle CharpantierはSt. Jude小児病院でポスドクをしていたということで(1997−99)、喜ばしい限りである。

 

追記1

医学生理学賞もたいへん良い授賞だと思う。私の父、さらには大学の恩師の命を奪ったのはC型肝炎だった。C肝は昭和から平成にかけての大問題だった。今回のノーベル賞の意義は、C型肝炎ウイルスが細胞培養によるウイルス培養を経ずしてゲノム配列が決定されたこと、さらにその塩基配列をもとに診断法はもとより治療薬の開発まで行われたことだ。C型肝炎研究は分子生物学の申し子であると言える。これについてもかつて簡単な記事を書いたので参照されたい。

 

追記2

学術会議の問題について、知れば知るほど腹が立つ。一人あたり約4,500万円の予算が使われているというではないか。これはたぶん、一期6年分の予算と”年金!”を含んだ金額だと思うが、詳しいことを知りたい方はそれなりの資料に当たって頂きたい。学術会議のメンバーは大方大学教授なので、こうした余分な収入は不要だろう。私の言いたいことは二つ。一つはこうした予算を実際の(特に若手のための)研究費に回すこと。もう一つは、このような政府本体ではなく、関連団体に使われている膨大な額の予算を見直す事である。

増税の前にやることがあるだろう。

警官の暴力について:銃社会をどうやって脱却するか?

報道されている通り、5月25日に黒人のGeorge Floyd氏が警官の過剰な行為により死亡した。これはミネソタ州ミネアポリスでのできごとだ。動画で流布されている通り、この事件はひどい。抗議デモが全米のみならず、世界各地で行われ、今のところ止まる気配はない。既に数多くの意見、論評がネット上に公表されているので、ここでは重複をさけ、あまり論じられてこなかった観点から私見を述べることにする。

 

米国の警察官の過剰な取り締まりの元凶は、この国が銃社会であることによる。これが私の考えだ。

 

仮に被疑者が銃を持っていて反撃してくれば、そこに複数の警官がいても死傷が出ることは免れない。これを防ぐためには反撃の可能性のある被疑者の扱いは過度に暴力的にならざるをえない。これが米国の警官と被疑者の関係だ。

こうした事件は毎年全米各地で起こっているが、今回のように社会(および世界)の注目を集める事件はほんの一部だ。実際にはさらに多数のケースが起こっている。きわめて重要なポイントは、こうした事件の訴訟経緯だ。明らかに警官側の過剰な取り締まりであると思われる場合でも、当事者である警官のほとんどは起訴されない。仮に起訴されても有罪判決が下されることはありえない。そこには長年にわたって培われてきた白人中心社会の構造的な歪みがあるが、このこと自体に深入りするのは本論の目的ではない。

社会に広く銃が流布してることが、いかにこの社会を歪めているかについて、米国人は全く無頓着だ。例をあげよう。

ある住宅地で低所得者層(多くは黒人、ヒスパニック)の割合が上昇するとどうなるか。そこに住んでいる高所得者層(多くは白人)の住民はより郊外に移住する。そこで再び高所得者層の住民と共に暮らそうとするのだ。これは何故か? 理由はいくつか挙げられるが、その最大の理由は銃による犯罪から逃れるためだ。これは生命に関わるので逃げ出さざるをえない。

幸か不幸か米国では新規住宅地を開発するための土地が十分にある。このため都市は際限なく広がり、中心に近いところはスラム化する。米国を旅行した人ならば誰でも気づくことがある。それは一部の例外を除いて、都市は中心のビル群の街区(ダウンタウン)の外側にかなり広大な荒廃した市街地が広がっている。こうしたどこにでも見られるドーナツ状のスプロール化は、人々の自動車による通勤距離を延長し、さらに公共交通機関を無力にする。

多くの米国人はこの現象が特におかしなこととは考えていないようだ。このような都市のありかたは、人々の社会性に関する歪な常識の形成に寄与している。米国人はもともと欧州の各地域に定住していた人々を起源としている。しかし上に述べたような住宅のありようは、人々にノマド的性格をもたらす。核家族ごとのノマドだ。この国では地域のコミュニティが形成されないのだ。例外的に貧困地域に定住している黒人をはじめとするマイノリティには強固な地域コミュニティーが存在している。そこでは路上で子供たちが遊んでいる。この子供たちのほとんどが高卒で終わるか、高卒にすら届かない。貧困の再生産だ。

私はカナダの都市にも行ってみたが、そこには米国で見たような都市のドーナツ化を見ることはできない。都市はごく自然に高層ビル街、低層住宅地、庭付き住宅と広がってゆく。その広がりは無際限ではない。

米国とカナダの違いは何か? 銃である。

今回の醜悪な事件の背景にあるのは銃だ。この種の事件を防ぐために必要なこと、それは民間の銃の撤廃である。被疑者が銃を持っている可能性がなければ過度に暴力的になる必要はない。そう、カナダや日本のようになれば良いのだ。そう考えたとき、そこには解決策がないことがわかり、暗澹たる気分になる。我が国の民間(および潜在的対抗勢力)の武装解除豊臣秀吉による”刀狩り”が有名だが、徳川時代に完成した。”刀狩り”が可能なケースは何か? それは秀吉や徳川のような圧倒的に強力な権力が国内に成立したとき、または国(地域)全体が外国勢力によって占領されたときだ。

だからこの国が武装解除される可能性は限りなくゼロに近い。警官のメンタリティも変わらない。

 

暗澹たる気分だ。

 

 

 

Covid-19の今後 (7)

(前回から続く) 

以前本ブログでも述べたことがあるが、国防と防疫は同じような考え方に立脚している(いつの記事か忘れたが)。このコロナウイルスの流行でそのことを痛感している。

Youtubeで長谷川、高橋両氏のサイトでワクチンをめぐる諸問題を論じている(動画では42分頃まで)。阪大グループのワクチン開発の当事者、森下竜一教授を交えた議論でワクチンが戦略物資であることが強調されている。こうした話は既存メディアからは全く聞こえてこない。(既存メディアは有害なことしかやっていないので当然だが。)

森下教授はADEについて触れていないが、星良孝氏の記事がよく纏まっている。内容、タイミングとも素晴らしい。

ウイルスの病原性の解明、ワクチンの効力検定、ADEの可能性などの研究には実験動物が必要だが、今のところ齧歯類は使えない。遺伝子改変型マウスの開発は現在行われているはずなので、時間が解決してくれることと思う。

少なくとも日本国内におけるCovid-19流行は今のところよく制御されているので、この間に中長期的な課題を解決しておくのが肝要だろう。

職場も段階的に復帰が始まっていて、私も先週から一日4時間体制で働いている。今後いつ全面復帰できるのか、いつ旅行ができるようになるのかなど懸念材料は尽きない。さらに米国ではすでに相当数の失業者が出ていて、不況(恐慌)がどの程度、いつまで続くのか不安だ。とくに米国では経済状況は治安と直結しているので今やこれは最大の関心事だ。

仕事をしながら世相を注視してゆくことになる。Covid-19の記事はしばらく上げないことにする。他にも大事な問題があるので。

 

 

 

 

 

 

 

Covid-19の今後 (6)

前回から続く)

少しメモ、雑記の類を書いておく。

 

国民皆PCR

5月17日の日本での新規感染者数は50名となっている(東洋経済のデータによる)。同日のPCR検査数は約5,000件。ここに至ってPCR検査を増やす必要性は全く無く、むしろ有害だ。検査体制のさらなる充実は必要だがそれは中期的な話。しかしこれとても抗原検出で代替可能性がある。

 

ワクチン開発の壁

今日(5/18)はワクチン開発をめぐるニュースが飛び出してきた。開発したのは米Moderna社(Cambridge, MA)で、RNAワクチンだ。ワクチンで被験者血中に中和抗体が誘導されたと報道されている。核酸ワクチンの試みは既に10年ほど前から試みが始まっていたが、Covid-19でようやく実用化に向かって進み始めた。このModernaのワクチンでは最も楽観的な見通しとして7月から第III相試験が始まり、最短で2,021年の1-7月にFDAに認可されるという。核酸ワクチンの利点については以前のブログで紹介しているので参照されたいが、その一つは開発スピードが速いことだ。

但し、現在臨床試験に乗っているワクチン候補の試験の数は計93にのぼり、複数の候補は既に第III相に入っている。どのワクチンが競争に勝つかはわからない(注)。

ワクチンの臨床試験で最大の問題は、いかにして被験者の数を確保するかだ。今世紀に流行した最も致死性の高い感染症エボラ出血熱だ。以前のブログ記事でエボラワクチンの臨床試験の関門を書いておいた。それは1,000以上の被験者を集めた試験を”流行が終息する前に”実施することだ。実際複数のエボラのワクチン候補はこの最終段階を完了することなく、宙ぶらりんになっている。

さらにCovid-19に特有の問題として、その発症率と死亡率の低さがある。仮に1,000人からなるワクチン非接種群(対照群)の発症率が10%であるとすると、100人しか発症しない。そのうち5%が死亡すると20人しか死亡しない。その100人の発症数と20人の死亡数をワクチン接種群でどれだけ減らせるか?という試験になる。意味のある数値を出すためには一体何人の被験者を集める必要があるのだろうか? 日本国内のCovid-19の状況をみると、最初の波は終息に向かいつつある。この状況でワクチン臨床試験を国内で完遂することは当面不可能だろう(注2)。

 

BCG

さてもう一つの話題はBCGの効果だ。

これについてはCovid-19以前に既に多数の研究が発表されている。PubMedで"BCG innate immunity virus review "をキーワードで検索すると、計13報が上がってくる。そのうち"Non-spec effects of BCG vacine on viral infections"というそのものズバリの総説が出てきた。今のところ論文本体を入手できていないが、要約からヘルペスとインフルエンザに対する効果がマウス実験で確認されているようだ。

検索キーワードで"virus"を除くとウイルス感染のみならず、メラノーマなど複数のがんに対する効果が報告されている。これらはすべてBCGがinnate immunity(自然免疫)"を活性化ことによると考えられている。

Covid-19でのBCG仮説は検証される必要がある。

 

動物実験

Convid-19の研究上、大きな問題としてマウス、ラット等の齧歯類が使えないことがある。これらの種にSARS-CoV-2が感染が起こらないのだ(注3)。これはひとえにウイルスのスパイク(S)タンパクがこれらの種のレセプター(ADE2タンパク)に親和性を持たないことで説明される。世界の研究者はこの問題を解決するために遺伝子改変マウスの開発を進めている。当然これには時間がかかる。Science誌に簡潔な記事がある。

 

関連ウイルスが潜伏している?

ここから先は口コミ情報、またはさほど信頼性の高くない話。

Covid-19については”普通の風邪”であると主張している医師がいること。これは日本の話。

もう一つは私の周囲(テネシー州メンフィス市)に今年初め(一月)にCovid-19に似た症状を発症した人がいた。この時点では当然米国内にはCovid-19は存在していないことになっている。しかし彼の周囲に同様の症状を示した人が複数いたという(クラスター?)。さらにロスアンゼルス地域でもそうした奇妙な風邪が流行していたという。

こうした話の真偽はわからない。しかしもしCovid-19に関連した先行ウイルスがあったとすれば、これはCovid-19の全体像の把握に大きな影響を与える。科学的発見は思わぬ形で現れることがあるので注視していきたい。

(続く)

 

(注)臨床試験コンパイルした米政府(FDA)のサイト(ClinicalTrial.gov)があり、ここでキーワードを入力すれば進行中および終了した臨床試験が検索できる。

(注2)臨床試験の被験者集めは新薬開発におけるボトルネックとして認識されている。新薬候補の数が多すぎるのだ。最近ネットで見た宣伝に、”英国で臨床試験のボランティアに参加しませんか?”というのがあったが、これなどは被験者を集めるための策であろう。

(注3)これついては武漢のNature論文を参照されたい。

Covid-19の今後 (5)

前回から続く)

続きを書こうと思っていたら発熱して中断。この時期の発熱は多少の緊張を強いられるので始末に負えない。そうこうしているうちに職場の再開プログラムの第一段階が始まろうとしている。熱は一日で引いたので、続きを書くことにする。

 

⒌ 最初の抗体サーベイランスは意味を成すか?

抗体検査の意味するところと、その課題についてはJohns Hopkins University School of Public Healthから出されているインタビュー動画が簡潔に本質をまとめているのでお薦めしたい。英語だが字幕もついているので理解しやすい。字幕についてゆけない人は再生速度を遅くして見ればよい。

 

そうこうしているうちに、日本で最初の抗体調査の結果が発表された(これも2週間程前の話になってしまったが)。これは既に報道されている通り、大阪市大と神戸大の共同研究で行なわれたものだ。さらに抗体検査キットを開発したMokobio Biotechnology(Rockville, MD)という会社との共同研究となっている。ここで用いられた抗体検出法は比較的新しい方法で”量子ドット法”と呼ばれるものだ。私はこの方法には未だ馴染みがないが、最終的なアウトプットの原理はFRETによるものらしい。これによりあらゆる抗原–抗体反応の検出について回る”洗浄”の過程を省略できる、すなわち検査時間を大幅に短縮できる。量子ドットの特質から検出波長のバンドパスが狭く取れるので、S/N比を高くできるという利点があるようだ。

ここでは大阪市大病院にCovid-19以外で来院した患者の残余血清で、312人中3人が陽性だったという。すなわち1%が感染履歴を持っていると思われた。検出抗原としてはSタンパクを用いているので、一応中和抗体を含む抗体を検出していると思われる。この点については次回また議論したい。

Covid-19は短期間で流行が拡大し、かつ国内では感染率に地域差がある。本日報道された厚生労働省日本赤十字社の調査では、東京で3/500(0.6%)、また東北で2/500(0.4%)となっている。これは献血検体を用いている。但し、この調査の目的は抗体検査キットの評価のために行なったとしている。したがって上の値も最大3検体(東京)、あるいは最大2検体(東北)が陽性だったという書き方になっていて、要は検出キット間で結果に不一致が見られている。抗体検出法の詳細については今のところ元情報にたどり着けていない。

東京と東北ではこれまでPCRで見つかった感染者数は50倍程度の違いがあるので、その差は抗体陽性率にも反映されるても不自然ではない。今回公表された陽性率の僅かな差が信用できるだろうか? あえて理由を探すならば、献血に出向くのは概ねCovid-19と無縁と思っている人々なので、両地域とも不顕性感染者の割合が出てきている可能性がある。これが両地域でさほど差が見られない理由かもしれないが、偽陽性の可能性もある。

いずれにしても、さらなるデータが必要だ。

 

これまで書いてきたことからわかるように、抗体検査においてはとりあえず地域、国のなかでの感染履歴を持つ割合の把握することが目的となる。この目的を達成してゆくために必要なことは、まず検出されている抗体が真に感染後だけに出現することが保証されなければならない。

このことを示すにはどうすれば良いか?

これは比較的単純な話で、ある程度の数のCovid-19患者について、入院時と退院時のペア血清について抗体価を調べてやれば良い。前に紹介した武漢からの論文にあるように感染初期にはIgM抗体が、ある程度時間が経つと(これは10日から2週間が目安)IgG免疫抗体が上昇してくる。だから入院時にはIgMのみが検出されるか全然検出されない、一方IgGは退院時のみに検出される。このパターンが明瞭に出てくれば良い。さらに陰性対照として、SARS-CoV-2に感染していないことが確実な人の血清も加えてやり、これらからはIgM、IgG抗体のいずれもが検出されないことを確認してやれば良い。検体数の目安はとりあえず各群数十検体といったところか。陰性対照としてはSARS-CoV-2の存在しなかったはずの過去の凍結血清を用いるのがベストだ(注)。

感染経過におけるこうした抗体の動態を把握した上で、 既にあまた出回っている検査キットの評価をすれば良い。厚労省の発表では検査キット間にばらつきがあり陽性者数を確定できないというが、それはその通りだろう。すべてのキットが同じ原理、材料でできているわけではないから。中途半端な段階で結果が公表されたことには疑問符がつくが、一応日本では5月初めの時点で0.5%程度の陽性率と仮定してみる。すると全部で63万人程度の人が既に感染したことになる。当然この値は集団免疫にはほど遠い。

しかしこの値から計算される致死率(死亡者数/抗体陽性数)は0.07%となり、これは毎年流行するインフルエンザと同等か、低いということになる。未だ時期尚早ながら、これがCovid-19の正体ではなかろうか?

すなわち、致死率から見たCovid-19は恐れるに足らない。しかしその潜伏期の長さから感染拡大が容易に起こる。しかも現時点では抗体保有者の割合が1%にも満たないことから、放置すればさらなる流行拡大が容易に起こる。さらに発症してからの経過が長いことから医療資源を占有してしまう。その結果、Covid-19のみならず他の一般患者の診療にも不具合が生じている。問題の本質はこの後半部分だと思う。

 

世間では”PCR教”とでも呼べるような固定観念が流布している。中には54兆円をかけて全国民にPCR検査を実施することを主張しいるグループがあるらしい。愚の骨頂である。公的費用の分配はリスクと便益を天秤にかけて行われるべきだが、上に述べたように”日本では”Covid-19のリスクはそれほど高くないのだ(注2)。

社会はあらゆることについてそのリスクと利益を天秤にかけて費用を算出してきたのだ。その代表的例を挙げると飛行機だ。航空機事故の一回ごとのハザードは巨大だ。しかしその確率は驚異的に低いので、これらを掛け合わせた値、すなわちリスクは低い。そのため飛行機の利用は圧倒的に利益が大きい。だから航空機による旅客数は飛躍的に伸びたのだ。同様の考えは、自動車、原発、ワクチン等、社会が利用しているすべての技術システムのバックグラウンドにある。

何によらず、ゼロリスクを追求すると巨額のお金が必要で、それを国民が求めるのは愚劣だ。それを煽るマスコミや政治家(さらには思考停止している学者)には早く退場してもらいたい。

続く

 

(注)凍結検体が使えるのは抗体検査の良いところだ。この凍結は−20Cフリーザーで良い。PCR検査では不安定なRNA検体を用いるので普通は即時反応に供する。もし保存するならば−80Cフリーザーが必要だ。−80の数はどの施設でも多くない。

(注2)こういう人々に共通する心性として欧米のデータ、欧米の言説をありがたがる傾向が強いように思う。日本のデータを見ると欧米諸国に比べて流行拡大のスピードが際立って遅く、このことは一ヶ月以上も前から明らかだ。これは対数グラフで見たときの傾きの違いでわかる。この傾きの違いは一貫して変わらない。むしろ他のアジア諸国との類似性が高い。思考停止は正しい答えを得る上で最大の敵である。