メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

科学と社会の関わりについて考える

ものすごく大きなタイトルだが、これが私が常々考えていることなのだ。まあブログのサブタイトルとほぼ同じなのだが。今回の”学術会議”のアホらしい事件に火をつけられてしまったので、少しづつ文章にしてゆきたい。

 

社会は科学(技術も含む)とどう付き合ってゆけば良いのか? 科学が人々の生活を向上させてきたのは歴史的に紛れもない事実である。だから人々は社会に導入された技術を受け入れて使ってゆけは良かったのだ。

しかし今日、多くの分野で人々の生活を根本的に変えうる技術が使われ始め、このまま行くと人類が破滅する可能性すらでてきている。今回のコロナウイルスが人工物かどうかは今のところ不明だが、人工的に作られたウイルスが世界を破滅させる可能性が十分に示されたことで、科学史的にはもとより、人類史的には大きな意味がある。しかしこれは一つの例に過ぎない。

今日、科学(技術)の研究に携わる人口が飛躍的に増加し、先駆的発見が実地に応用される過程が格段にスピードアップしている。

一方、これを受け入れる側、最終的には一般の人々だが、人々は自らの理解力をはるかに越えた新技術を主に商業的手段によって受け入れさせられている。それをマニュアルに従って使いこなしているわけだ。

この社会への新技術の導入を媒介するのは政府の政策だが、これを世間に知らしめるのはメディアの役目である。しかし大手メディアの科学リテラシーはほとんど小学生レベルだ。政府のレベルはもう少し高いかもしれないが。

 

要約すると、研究者の層は年々厚みを増しているが、研究の成果である新技術を受け入れる一般の人々、さらにそれを媒介する政府、報道の側の科学的知識は一向に増加していないのだ。

今日のように、生活のあらゆる分野で新しい技術が導入され、日常的に使われていても、社会全体としては一向にその本質的部分についての理解が全く進んでいない。

問題はトラブルが生じたときに起こる。日本ではこうしたトラブルとして、東日本大震災原発事故、子宮頸癌ワクチン、あるいは今回のコロナウイルス流行が挙げられる。こうした災害、事故に際して、政府、メディアはどのように行動し、そのことが人々の生活にどのように(悪い)影響を与えたのだろうか?

 

およそあらゆる知的作業は[情報収集 → 分析 → 現状把握 → 対処法の考察]という流れで行われる。社会と科学の関わるについてどのような研究がこれまでなされてきたか、私自身の怠慢により、実際のところよく知らない。しかし上述した事例における政府や報道機関の不適切な行動については詳細な分析がある。

一方、こうした事例をなくするようにするにはどのようにしたらよいのか(対処法の考察)? この問いについて、個々の事例を越えて社会の構造を知的に強靭化するための方策が提言される必要がある。

しかし、例えば”学術会議”(この名称は本当に好きになれないのだが)のような学者の団体が、こうした大問題について、継続的に議論し、提言するような活動をしているとはとても思えない。少なくとも、”軍事研究の禁止”とか”戦争法案反対”とかいう小さな問題を中心に据えるべきではないと思う。これらの問題も国の政策に与える影響(しかも負の影響)は大きなものだが、少なくとも21世紀的な知的大問題ではない。

今日的大問題は”軍事研究の禁止”とか”戦争法案反対”とかではなく、著しく肥大化した科学・技術と相変わらず低空飛行を続けるそれ以外の部分との解離から生じている。専制的国家による科学・技術の悪用なども、こうした問題意識の延長線上にあるかもしれない。

 

こうした諸問題について、私自身少しずつ勉強しながら書いてゆきたい。言い訳がましいが、今本業が忙しいのであまりペースは上げられないが。