メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

『人類の起源』を読む:記録なき歴史学の誕生?

 篠田謙一著 ”人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」"(中公新書)を読む。国立科学博物館館長の篠田謙一博士による人類の起源を解説した新書である。本稿では読後の雑感を記す。

 これは”記録なき歴史学の到来”を宣言する書物か?

 本書は新書版なので分量は限られるが、内容はとても濃い。人類進化の最近の知見のほとんどは21世紀になって勃興したこの分子人類学(Molecular Anthropology)の手法によるものだ。この20年間の知見の集積により人類進化に関する見方に革命が起こったと後世評価されるであろうし、既にそのように考えられている。本書の中で著者が何度も言及している通り、今世紀になって出現した次世代シークエンサーにより、巨大なヒトゲノム(3.300億塩基対/ハプロイドゲノム)が解読可能になった。しかし古い人骨に含まれているDNAは当然化学的に相当傷んでいるわけだが、こうしたDNA検体の解読を可能にしたのは、一昨年ノーベル賞を受賞したスヴァンテ・パーヴォ(Svante Päävo)である(1)。パーヴォはネアンデルタール人の骨から抽出されたDNAからゲノム配列を決定し、驚くべきこと明らかにしたのである。それは現生人類とネアンデルタール人が交雑していたという事実であった。ネアンデルタール人に由来するゲノム配列は、アジア人、欧州人ともに2%程度の頻度でゲノム上に存在する。この発見から、原生人類が成立する過程で我々の祖先が遭遇した旧人と交雑することによって現在のようなゲノム組成が形成されたと考えられるようになる。これは人類の存在に対する見方そのものにも大きな影響を与える発見であり、科学の境界を超えた大きな発見であった。

 本書の章立てを紹介する。1. 人類の登場 ⒉ 私たちの隠れた祖先 ⒊ 「人類揺籃の地」アフリカ ⒋ ヨーロッパへの進出 ⒌ アジア集団の成立 ⒍ 日本列島集団の成立 7. 「新大陸アメリカ」へ 終章.  我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ向かうのか 以上となっている。

 一通り読み終わってみたが、やはり一番面白かったのは日本人を扱った第6章であった。人の認識が近くのことに最も鋭く反応し、遠くなるにつれて同心円状に鈍くなっていく以上これは仕方がない。通説では、日本人の基層は狩猟漁労民の縄文人で、そこに弥生時代になって大陸から農耕民が流入してこの両者の交雑により現代日本人が形成されたというものだ。私もそのように理解していた。今の技術を用いて現代人のゲノム中の縄文人の要素が定量化できるわけだが、沖縄では30%、北海道(アイヌ)では70%、それ以外の本土では僅か10%にしか過ぎないという結果であった。年代測定によって縄文時代に生きていた人の骨の特徴が縄文人の特徴というわけだ。この結果、すなわち縄文人的要素がおそらく人々が漠然と考えていたよりも、かなり低い値であったであろう。この結果から著者は特に本州の現代日本人の起源は主に大陸(特に朝鮮半島)から渡来した人々であるとする。但し、稲作農業の方が狩猟漁労に比べて圧倒的に人口涵養力が高いので、現代日本人の縄文的要素の低さは、必ずしも半島からの流入人口の多さを反映するものではないことに留意する必要があろう。私にとって、大変興味深かったのは北九州の福岡県、佐賀県の平野部から出土した弥生時代の人骨は、弥生人の特徴を強く持っているのに対して、佐賀県長崎県の主に玄界灘に面した海岸地域、この辺りは山地が海に迫り、あまり農耕に適した土地ではない。弥生時代にこういった場所に住んでいた人々は縄文的特徴を強く備えていたというのである。一昨年のことになるが、福岡県、佐賀県長崎県を巡り、”縄文的”地域に魅せられた体験があったので、この辺りはさらに興味深く読むことができた。この縄文的特徴を持った人々の分布は、後に隠れキリシタンが多くいた場所である。さらに成人型T細胞白血病の分布とも一致するように思えた。検察してみると、そのような研究発表が既になされていることに気づいた(http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/37724127.html)。もう一つ面白かった記述として、アイヌの由来のことがある。アイヌは現代の日本列島に住む人々の中では最も縄文的要素(70%)を持つ人々である。しかし本州を起源とする日本人と様々な割合で交雑が進んでいるという。しかし面白いことに、ある一定程度の割合で沿海州などの大陸のモンゴロイドとの交雑も認められるという。この点南西諸島の人々に台湾原住民やフィリピンの人々からの遺伝子流入が認められないことと好対照であった。

 本書の中身の話はこれぐらいにして、以下関連する書物について言及しておく。出アフリカに関しては気候要因を加味して説明している書物がああるので、興味がある方はご一読することを勧める(2)。ユーラシア大陸の民族の興亡の歴史を述べたのは「世界史の誕生」だが(3)、本書第5章の内容とリンクして解説するような書物が出てきてくれたらこれまたありがたい。もうしばらく待つ必要があるかもしれないが。終章のタイトルはエマニュエルトッドの近著のタイトル(4)とよく似ているので思わず苦笑せざるを得なかったのだが、畢竟人間に関わる学問は本質的にこの問いへの答えを得ようといて日々努力しているのであろう。

 最後になるが、この書は”記録なき歴史学の到来”を告げていると私は感じたのである。文字による記録がない場合は、物から過去に起こった出来事を推定することが行われる。これは考古学である。ところが、現代のゲノム解析技術と年代測定法をもってすれば、文書による記録がなくとも人々の移動や絶滅などが継時的に把握できるわけだ。さらに本書で述べられているように、DNAから近縁関係が判定できるので、集落の規模や婚姻の在り方などもある程度わかるようになってきている。実はこれは伝統的にエマニュエル・トッドのような文化人類学者がカバーしている領域で、ついに自然人類学と文化人類学が融合しようとsている。こうした以前には考えられなかったことが起こりつつある。

 本書の魅力は尽きることがないので、ぜひご一読することをお勧めする。

 

(1)Päävoは一般にはペーヴォと呼ばれている。これはPäävoが長くドイツで研究活動を続けているので、ドイツ語読みとしては自然だ(但しドイツ語には同じ母音が続く単語は本来存在しない)。私が直接スウェーデン人に確認したところ、日本語発音としてはパーヴォと表記するのが自然だと思う。

(2)"Origins: How the earth made us", by Lewis Dartnell, 2018. Bodley Head 

(3)世界史の誕生岡田英弘著、1992年(筑摩書房

(4)「我々はどこから来て、今どこにいるのか?:民主主義の野蛮な起源」エマニュエル・トッド著、2022年(文芸春秋社