2,017年はゲノムシークエンシングが爆発する?
昨年末、サイエンス誌に昨年(2,016年)発表された最大の科学的発見が掲載された。それは”重力波の観測”だったが、別記事でそれに次ぐ9つの業績も出された。この中には京大グループによる”受精能を持ったマウス卵子のin vitroでの作成”などが含まれている。この中で私は"Genome sequencing in the hand and bush"に注目している。
以下この件について、(1) 現状、(2) 原理、(3) 特徴、利点、(4) 応用範囲、(5) 医学生物学史上の意義、(6) その他、を簡潔に述べたい。
ゲノムシークエンシングに関しては、すでにその波及効果について言及してきたが、今回の技術はこれをさらに拡大させる威力があると思う。概略を述べると、新しい原理に基づくDNA配列決定技術がいよいよ市場に出てくるらしい。これは英Oxford Nanopore Technologies社が開発したものだ。名前のとおり、ナノポアシークエンシングと呼ばれる技術を商品化したのだ。既にベータテストも終了し、いよいよ市販されるということだ。実際ウェブサイトに行ってみると、価格も表示されている。
その原理をきわめて大雑把に説明すると、絶縁膜上に作られた微小な穴、これはだいたい直径1 nm程度のものだが、この膜を挟んでDNA分子を電気泳動してやる。そこをDNA分子が通過する際に各ヌクレオチド(塩基)が電流を阻害する。この阻害の程度は各ヌクレオチドによって異なるので、それを一個ごとに順番に検出することによって塩基配列がわかるというものだ。上記Oxford Nanopreのサイトに原理を解説した動画がある。この会社は正確にナノポアを作りかつ電流を検出する技術を確立したのだ。
これまでに普及してきたシークエンサーのほとんど全てがSanger法またはそれの応用であった(注1)。ナノポア法ではこれと全く異なる原理に基づいている。この方式の利点のひとつは断片化していない長い核酸分子が読めることだ。そのためコンピューター上での複雑なプロセスを省略できる。つまり大きなコンピューターが不要である。Sanger法のような酵素反応ではないのでRNAも読める。さらにOxford Nanopreはこれをポータブル化してTVのリモコン程度のサイズにしている。値段も安い。ポータブルなのでフィールドワークの現場でも使える。
この方法の実用性については、すでに多数の論文がプレプリントサーバー"bioRxiv"上に掲載されていて、十分使用に耐えうることが実証されている。過去10年間にイルミナなどのnext-generation sequencingは医学生物学のあらゆる領域に応用され、かつ一部の領域を爆発的に進歩(ないし進化)させつつある(注2)。しかしこうした研究の展開も、シークエンサーが高価であること、大型のコンピューターが必要であること、さらには配列を解析するための要員が必要であることから、限られた研究機関でしか実施されてこなかった。ナノポア技術が普及することにより、少数のトップ(金持ち)研究機関に独占されてきたゲノム解析がより広く開放される。これで第三次ゲノム時代が到来すると私は予想している。
我々はこれまでに、医学生物学研究の歴史上”素人化”と呼ぶべき現象が何度も出現してくるのを見てきた。素人を巻き込み、その裾野を広げる。その結果としてより分厚い研究成果がもたらされる。典型的にはPCRの出現によって、これまで大腸菌を使わなけれできなかった分子生物学的研究が医師などの”素人”に解放されたことが挙げられる。その結果、膨大な量の疾患関連遺伝子のデータが生み出されたのだ。
今回のナノポア技術も、新たな”素人化”をもたらす可能性が大いにある。さらに費用的な面からもメリットが大きいので、研究の発展途上国でもゲノム解析が十分可能になると予想される。ゲノム研究で出遅れた日本の医学分野でもキャッチアップが可能になると思われる(注3)。
最後にこの画期的な技術が英国から出てきたことにも着目したい。ワトソン、クリックの二重螺旋の発見はともかくとして、分子生物学的発見とその研究手法のほとんどすべてが米国から出てきている。この英国発の新技術という事実は大きい。英国の人口は日本の1/2、米国の1/5程度にしかすぎない。にもかかわらず、科学の分野で揺るぎない地位を保っている。最近米国の研究者に与えられた科学分野でのノーベル賞の多くは、実は英国出身者で占められていることは重要である(注4)。最近のシークエンシング技術をとってみても、そのほとんどが米国特にカリフォルニア州から出てきている。組み換え型ネッタイシマカの例など、英国では大学発のベンチャーが開花してきている。英国では金融以外の産業が滅んでしまったという認識が定着しているようだが、21世紀型の産業が起こりつつあるように思う。こうした英国の実力の理由については検証される必要がある。
さらに最後になるが、これで益々ゲノム情報のプライバシー保護が困難になるであろうことも追加しておく。
(注1)この事実はいかにSanger法が優れていたかを示すものだ。実際先行するMaxmam-Gilbert法は完全に廃れてしまった。30年間もシークエンシングの王座についていた事実は後に歴史に記載されるであろう。
(注2)医学分野ではがんのゲノム解析、微生物叢の研究、およびあらゆる疾患における遺伝子発現パターンの把握。より基礎的な分野では生物分類の見直しや進化学への貢献。さらには歴史学、考古学への貢献と、次世代シークエンシング技術はあらゆる分野で用いられている。
(注3)比較的最近書いた記事ではドラッグスクリーニングにおける”ド素人化”について論じた。
(注4)このことは実は、米国の教育システムや研究者育成法にある何らかの欠陥を暗示している。しかしこれは簡単に手に負える問題ではない。ゆっくり考えてみたい。本当は英国のシステムを見る必要があるのだが。