メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

”サル学の現在”:エンハンサーから進化を覗く

現在はゲノムの時代(第二次ブーム)だ。ゲノムの特徴から見たときにヒトと類人猿の違いは何かというのは科学者でなくとも素朴に抱く疑問であろう。よくいわれるように、ヒトとチンパンジーのゲノム配列は98%以上が同じであるという。この”98%”という数字が具体的に何を意味しているのか、また誰が言い出したか私はよく知らない。要するに大変よく似ているということだ。ゲノムの配列が大変よく似ているにも関わらず、ヒトとチンパンジーは外見上かなり違っている。(形態的な違いの要点は尾本恵市の著書に簡潔に書かれてある。)これは第一義的には発生の問題である。

種間における形態的、機能的な大きな差異がどのようにして生じるかについて、個々の遺伝子のコード領域の配列ではなく、それらの発現調節領域の違いに注目が集まっている。この考え自体は分子生物学の初期に提出されているが、いかんせん当時はヒト(およびサル)ゲノムの情報がほとんど(あるいは全く)なかった。最近ゲノムそのものの配列に加えてエピジェネティックな情報についても次世代シークエンシングの応用により飛躍的に情報量が増えた。これによってゲノム上の転写のアクティブな領域とイナクティブな領域が把握できるようになった。最近紹介したスーパーエンサー領域のH3K27のアセチル化はアクティブ領域のマーカーの代表的なものと考えて良い。こうした修飾ヒストンに対する特異抗体を用いたクロマチン免疫沈降を行い、回収されたDNAの配列を決定するわけだ。

昨年9月のCellに”Enhancer Divergence and cis-Regulatroy Evolution in the Human and Chimp Neural Crest"というタイトルの論文がStanfordのグループから出た。この論文ではまさにエンハンサーの活性の違いに着目している。

このStanfordグループ(Prescottら)はどのように問題設定をしたか? 

ここで解こうとした問題はずばり、ヒトとチンパンジーの”外見”の違いがどのような発生的違いにより生じるか?”だ。大命題である。簡単にいうと顔がどうして違うのか、ということだ。外見上の差、つまり形態的な違いというのは表現型としてはふつう扱いづらいものである。Prescottらはこの命題に対して、発生途上における両者の神経堤細胞でエンハンサーの活性化のしかたの差で形態形成の違いを説明しようとする。(だが具体的な形態的差異がどのようにして生じるかについては例によって後回しだ。この点については後で戻る。)

発生途上に神経管が作られる。神経堤(neural crest)というのはこの神経管の脇を固めるように盛り上がってくる外胚葉由来組織である。神経堤の特徴は、そこから遊離した細胞が体内を移動して種々の独立した組織になることだ。代表的なものに副腎髄質や皮膚のメラノサイト、あるいは消化管の神経叢がある。おもしろいことに、神経堤由来組織は体のいろんな場所に散在していて他の胚葉由来組織(例えば内胚葉に由来する消化管)のように連続的に繋がっているわけではない。ところが頭部では少し話が異なる。そこでは筋肉、骨、軟骨といったふつう外胚葉以外から発生してくるような組織も神経堤細胞から作られるのだ。こうした組織は頭部、顔面の形状を形作る。ふつう脊椎動物の各部位を比べると、頭部は他に比べて造作が細かい。目や耳や、その他の頭部にしかない器官が多く存在する。こうした頭部(顔)の微妙な造作は頭部神経堤細胞(Cranial neural crest cells, CNCC)によって作られる。そこでPrescottらは、ヒトとチンパンジーの顔貌の違いをこのCNCCにおける遺伝子発現の違いに求めることにしたのだ。

(続く)