メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

デニソヴァ人:アミノ酸配列を手掛かりにする

Paleoproteomics(古タンパク学?)の話。

 

進化という現象に多少の興味があるのでこのブログでも進化関する記事は比較的多く書いてきた。

これまで私が書いた題材の中で最も印象的だったのは、Svante Pääboらによる”ネアンデルタール人のゲノム配列の決定”という輝かしい業績だ。この一連の業績のうち、最も衝撃的だったのは現生人類とネアンデルタール人との交雑がゲノム配列から明らかになったこと、さらにそのことが人類の進化的形成に対する我々の見方を一変させてしまったことだ。

 

もう一つ、Pääboらの業績の中でも突出したものにデニソヴァ人(Denisova hominin)の発見がある。この”発見”というのが凄い。シベリアの洞窟で発掘された人骨というのは、実は歯だけだったのだが、ここから抽出されたDNAからゲノム配列を決定したところ、現生人類とも、またネアンデルタール人とも異なる人類であることが確定したのだ。これは身体の一部でも残っていれば、そこから取り出したDNAから例えそれが人類の仲間であっても新種を発見することができることを示している(注)。そういう時代のさきがけとなった発見だったのだ。

さらに重要なことは、ネアンデルタール人のときと同様にデニソヴァ人のDNAの一部が現生人類(この場合はアジア人)の間に残ってることが明らかにされたことだ。アフリカを脱出した人類(の祖先)は、行く先々で遭遇した人類の仲間と交雑を繰り返しながら現生人類を形作ってきたらしい。当然地域ごとに異るグループと交雑したことが予想されるが、実際現生アジア人とオセアニア人のゲノム中にはデニソヴァ人のDNA配列が数%の頻度で見出される。これはヨーロッパやアフリカの現生人類には存在しない。一方ネアンデルタール人のDNAはヨーロッパ人、アジア人とも2%程度の割合で存在している。これはアフリカ人には存在しない。これらの事実から、人類はアフリカを脱出してまもなく、既にユーラシア大陸に分布していたネアンデルタール人と交雑した。さらに東(つまりアジア方面)に向かったグループは、既にそこに生息していたデニソヴァ人と交雑した後、アジア、オセアニアに広がっていったと考えられる。

さて、上に述べたようにデニソヴァ人は残存していた歯から抽出したDNAによって新たに旧人として同定されたものだ。DNA配列以外には形態などの手がかりはない。ところが今年になって、チベットで発見された約16万年前の顎骨がデニソヴァ人のものであると同定された。この発見の面白いのは骨からは使えるDNAが全く回収できず、代わりに回収されたたんぱく質アミノ酸配列が利用できたことだ。

我々実験者は”DNAは安定、RNAは不安定、タンパクも不安定”という常識を持っている。しかしいくつかのタンパクは例外で、長い時間を経ても安定である。その一例がコラーゲンで、今回の発見もコラーゲンのアミノ酸配列によっている。特定のアミノ酸残基が現生人類とも、ネアンデルタールとも異ること、およびそのアミノ酸配列がデニソヴァ人のゲノム配列から示されるアミノ酸配列と一致したことが決め手となった。

 

また新しい時代に突入したようだ。

こうしたきわめて古い検体からタンパクを抽出し、そのアミノ酸配列から進化や生態を探ろうとする分野をpaleoproteomicsと呼ぶらしいが、当然この言葉は大変新しい。しかしこうした分野にもパイオニアがいて、 1,980年代から試行錯誤しながら手法を確立したらしい(注2)。既に最古のものとして約380万年前の動物検体からのアミノ酸配列決定に成功している。この目覚ましい進歩は主に質量分析法(mass spectrometry)の高性能化によっている。

21世紀になり、ネアンデルタール人、デニソヴァ人のゲノム配列が明らかにされた。だから、さらにそれ以前に地球上に生存していた原人のゲノム配列が明らかにされることが強く望まれてきたのだ。しかし、こうした原人の骨が高頻度で発掘される大陸はアフリカだ。アフリカはいうまでも暑い場所である。当然DNAの保存には不向きだ(注2)。もう一つ、原人が発掘される場所がある。それはインドネシアをはじめとするアジアだ。ここも高温多湿である。こうした事情から、旧人よりも遥か昔に生きていた原人のDNAを入手はほぼ不可能と思われている。

H. erectusは14万年前まで、またH. floresiensisは6万年前まで生存していたことがわかっている。これはpaleoproteomicsの対象として十分射程に入る古さ(新しさ?)だ。こうした努力の先に、現生人類がいかにしてできてきた(進化してきた)か、そのヒントが得られることだろう。

しかし当然のことながら、ゲノム配列に比べるとタンパクの情報量は圧倒的に小さい。実際チベットのデニソヴァ人の場合は、トータルで約2,000アミノ酸残基しか読めなかったのだ。この場合は現生人類、ネアンデルタール人、デニソヴァ人のゲノム配列がレファレンス(参照)として利用できたのが幸いしたのだ。しかしゲノム配列が未知の動物(人類)ではこうは行かない。

もう一つの大問題は、検体に現代人(特に研究者)や動物のタンパクが混入している可能性だ。これはDNA配列の際にも遭遇した問題である。ゲノム解析においてこれを解決することなくしてPääboの業績はなかったことは明らかだ(注4)。 先覚者達はこれらの諸問題を早くから認識していて、現在は慎重にことを進めているということだ。

ますます面白くなってきた。

 

(注)デニソヴァ人(ネアンデルタール人)と現生人類とが別の種であるかというのは定義の問題。この件に関しては、Pääbo自身も問題があることを著書の中で認めている。

(注2)例えばコペンハーゲンMatthew Collins

(注3)DNAは低温かつアルカリ性環境で安定である。ネアンデルタール人のゲノム配列が決定された検体は、クロアチアの洞窟で採集されたもので、洞内はアルカリ性であった。デニソヴァ人の場合は気温の低いシベリアの洞窟だった。

(注4)興味のある方はPääboの著書を読まれると良い。

生物多様性の話題(2):新種探索のコンソーシアム

現在は第6大絶滅の真っ最中である。人類が”生物は絶滅する”ことを発見してから僅か200年余り、この絶滅の勢いは人類が絶滅する以外止めるすべはおそらくない。毎年多くの種が新たに発見されてるが、それを上回る数の生物種が絶滅している。

 

DNA塩基配列に基づく新種発見の国際コンソーシアムが立ち上げられた。これはカナダのグェルフ大学(University of Guelph)が率いたグループで、International Barcode of Life(iBOL)という。このコンソーシアムの特徴は、生物種の同定をミトコンドリアDNA の中にある1kbの以下の領域(バーコード)の配列決定で種同定を行うものだ。この部分の配列がデータベース上にある配列に該当しなければ、それは新種である。

世界中の生物種の総数は870~2,000万種と見積もられているが、これまでに記載されているのは180万種にしか過ぎない。このコンソーシアムでは200万以上の新種の発見を目指している。特に昆虫については種の同定が手付かずの状態だ。バイオマスとしてみたとき、地球上の昆虫の総量は、野生の脊椎動物の総量を上回るとされていて、それらの種同定は重要である。

コンソーシアムには世界30カ国の研究機関が参加し、計2,500カ所で試料収集を行う(注)。7年間に要する費用は1億8,000万ドルだ(米ドルか加ドルかは不明)。検体の運搬、保存の手間を省くために、現地で核酸抽出と配列決定を実施するのだ。このために力を発揮するのがMinIONと呼ばれるポータブルシークエンサーだ(注2)。シークエンサー自体は携帯電話程度のサイズなのでどこにでも携帯可能だ。現地でバーコード配列を決定し、それをグェルフ大学に送付すれば良い。この転送のためのシステムをシークエンサーの製造元(Oxford Nanopore Technologies)が開発中とのこと。今のところ、すべての工程に要する費用は約1ドル/検体ということだが、さらに安くなる見込みだという。

さて、以上紹介したように現地での採材配列決定(On-Site Barcoding)が安く行えるということだが、このことはアマチュア研究者にとって朗報である。近い将来学校のクラブ活動で新種同定が行えるようになるかもしれない。ドローンを併用すれば面白いアイデアが実現するかもしれない。

 

(注)残念ながら今のことろ日本からの参加は記載されていない。

(注2)この安価なシークエンシング法については以前の記事で紹介した。

生物多様性の話題(1):シカゴのフィールドミュージアム

先週シカゴに滞在した際、かねて行きたいと思っていたフィールドミュージアムField Museum of Natural History)を訪れた。米国最大級の博物館だ(注)。ミシガン湖に面したシカゴダウンタウンの最南端を固めるように立地している。その巨大なギリシャ・ローマ様式の外観と同じく、内部の展示内容も壮観だった。全部を丁寧に見て回ると数日でを要するので、今回の初訪問ではいくつかの展示に焦点を絞って見て回った。

こうした大規模な博物館はPhDを持った研究者を多数抱えていることが普通だが、フィールドミュージアムにもこれは当てはまる。こうした研究者達の活動の一部を記録・展示した一画があり、それはアマゾン地域での熱帯雨林の保護に関する年余にわたるプロジェクトだった。このプロジェクトに参加した研究者は生物学者のみならず、文化人類学者、社会学者も含まれている。実際の活動は、研究対象となった地域における生物種の記載、および地域に暮らす人々の調査、さらにそうした人々への啓蒙活動である。こうした活動には現地語での会話能力を持った研究者が派遣される必要があるが、スペイン語を話す研究者が複数含まれているようであった。

この展示の中で一つ驚かされたことは、毎年熱帯雨林の破壊によって大気中に放出される二酸化炭素の量は、他の全ての人間の活動によって放出される二酸化炭素の総量を有に上回るという事実だ。一度破壊された熱帯雨林は再生できないという事実(注2)と共に、銘記されるべきことだと思う。

 

もう一つ興味を惹いたのは、上層階の広い通路に面してPritzker Laboratory of Molecular Systematics and Evolutionという分子生物学的手法で研究を行うための研究室が設置してあったことだ。パネルの説明には、世界各地で採取された生物試料が凍結した上でシカゴに送られ、それらのDNA配列がこの研究室で決定されるということだ。研究室の名称から判断すると、塩基配列を基に生物分類と進化を捉え直すことを目的としているらしい。

廊下に面した側はガラス張りになっていて、一般の見学者が研究室の内部を覗けるようになっている。さらにマイク越しにスタッフに質問できるようになっている。本来これは学童や科学に素人の人を対象としているのだろうが、周囲に人がいなかったので、私も質問を試みた。”こうした塩基配列に基づいた分類の試みは、Field Museumの膨大なコレクションの再分類にどのように貢献しているのか?”という問いに対して、”それは良い質問だと思うが、個々のセクションのマネージャーの考えに委ねられていると思う。”というのが回答であった。欧米の博物館では、膨大なコレクションの中には分類が手付かずの状態の標本が少なからずあり、その中から新種が発見されることも時々あることを聞いていたからだ。

 

生物分類が生態学的研究に必須であることを強く認識してヒトの腸内細菌学を確立したのは光岡知足である。先に紹介したアマゾンにおける新規生物種の記載はこうした思想に従っている。最新の塩基配列決定技術を駆使すれば、試料を丸ごと配列決定することにより生物種の動態を定量的に解析することができる。こうしたメタゲノム的アプローチについては特に展示で説明されていなかったが、当然ここでも既に行われているものと推察される。

 

(注)博物館とは”博物学(Natural History)”に関する展示を行う場所(Museum of Natural History)。日本で一般に使われている博物館の語は実際はMuseumの訳として当てられている。しかし本来Museumはより広い意味を持っていて、普通展示物を特定するための語句が付いている。例えばMuseum of (Fine) Artsは美術館だ。したがってMuseumの語は狭義の”博物館”よりも広い意味を持っている。ワシントンDCのNational Museum of Natural Historyは国立自然史博物館、ニューヨークのAmerican Museum of Natural Historyアメリカ自然史博物館と訳されているが、本来はともに”自然史”は余計である。誤訳と決め付けるわけではないが、文明開化期の翻訳がやや不適切であったと思われる。

 

(注2)この点で温帯林と事情が異なる。温帯林は林が破壊されても土壌が残っているのでやがて再生する。かつて神奈川県にあった有名なゴルフクラブが廃業したところ、芝地が約15年で雑木林になったらしい。一方熱帯雨林ではもともと高温なので土壌の厚みが貧弱である。有機物が早く分解してしまうからだ。上部の森が破壊されると、強い日射と激しい降雨によって貧弱な土壌が容易に流失するため短期間に裸地化が進行してしまう。

 

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Pritzker Laboratory of Molecular Systematics and Evolution
 

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 恐竜展示室から見えるシカゴダウンタウンミシガン湖。20世紀に発展した市街地の最高傑作。 

 

平成の終りを飾る上野千鶴子の”祝辞”

あまりにも多くの人々が論評している例の件だ。私が一万キロ東から常々感じていたことを書いてみる。(但し、私は政治学者でもなく、社会学者でもないので、かなり変なことを書いてしまうかもしれない。)

このブログのテーマである”主に生命科学と社会を考える”とはあまり関係ないようだが、微かに関係があることはある。

 

ここ米国では共和党のトランプという人物が大統領の職に就ている。この人物は見かけ通りに自身の欲求とか欲望に忠実なのであろう。今日の論点(というほどのものではないが)の一つは、この”欲望に忠実”ということである。

 

民主主義を構成している二大原理というものがある。言うまでもなくそれは”自由”と”平等”だ。原理と書いたが実際は民主主義社会が実現しようとしている理想である。だからこれらは原理ではなく”イデオロギー”と呼ぶべきなのだ。

実際この”自由”というのが曲者だ。各人が各々の自由を極限まで追求すれば、世の中は相当鬱陶しいことになる。どこかの先生が学士会報に書いていたが(失礼ながら、著者名は失念)、フランスとイギリスでは自由の概念が多少異なるという。前者(仏)では主に政治的自由が、後者(英)では経済的自由が大事だというのだ。米国はアングロサクソンの国として成立したので、この国では経済的な自由が重きをなしている。

問題は、各人が経済的自由を追求すると、誰かは金持ちになれるがすべての人がそうなるわけではないと言う冷厳な事実だ。だから経済的自由の追求は結果として不平等をもたらす。

この観点に立つと、”自由”と”平等”は相反するものである。別の言い方をすると”自由”と”平等”は対立概念であるということができる。(この点で日本の政党は自由も平等も一緒くたで、その点においては与野党に違いがない。だから常に対立軸がはっきりしない。)

 

ある時期に経済的自由が追求されると、それは富の分配の不平等をもたらす。これは放置すると社会に不満が蓄積して社会不安(暴動など)を引き起こすので、いずれ解消されなければならない。それを富の再分配(例えば累進課税)とか、社会福祉とかで解決しようとするのだ。(ちなみに消費税は逆進性があるので弱者をいじめる馬鹿な制度だ。)

大雑把にいうと、前者(自由)の実現を目指しているのが共和党で、後者(平等)の実現を目指しているのが民主党だ。だからトランプという人物が欲望に忠実であるように見えるのはとても自然なことだ。共和党政権で富の総量を増やし、その蓄積でもって民主党政権がその再分配をする。パイの拡大とその分配が交互に行われるわけだ。これが米国流二大政党による政権交代の大雑把なメカニズムだ。伝統的には英国の保守党と労働党の関係もこれに近い。(尤も最近の英国は多数党乱立の傾向のようだが。)

 

例によって前置きが長くなったが、平成時代の日本について考えてみよう。すでに多くの人々が書いているので今更の感があるが、私はこの間の日本では”人々の欲望が自己抑制された”と考えている。経済的自由を追及する(つまり金持ちになろうとする)ことは自己の欲望の発露の代表的なものであろう。多くの人々が経済的成功を目指そうとすれば、リスクを取って投資がなされ、それは結果として国の経済の活性化につながるであろう。

しかし実際はどうか? 人々はリスクを取らなくなった。今またマイナス成長になったいるらしい。経済的リスクはもとより、対人関係のリスクも取らなくなった。その結果が童貞率や未婚率の急上昇であり、少子化の進行である。欲望はどこに行ってしまったのだろうか。

結果、経済的にも対人的にも平等に貧しくなった。それでいいのだろうか?

 

話が飛躍するようだが、平成は過剰なコンプライアンスの時代だったと言われる。コンプライアンスとは欲望の発露と対立するものだ。世にいうリベラルの人々は差別とか、平等とか、こうした観念ばかりを強調して、人が本来持っている欲求とか欲望などをおよそ無視している(ふりをしている)、ないしは抑え込もうとしている。間欠的に出現する不倫報道はその最たるものだ。不倫は不道徳なものだが有史以来それが無くなったためしはないのに。こうした傾向は大手マスコミを始め、政治家、官僚、さらには大学教授の間に蔓延している。(そのくせ保身への欲求は高度に発達している。)

戦後教育の成果、ここに極まれりというべきか。

 

世の中で飛躍的な進歩を産み出すのは、どのような人々なのだろうか。ホンダやソニーを裸一貫で気づいた人々を見れば良い。あるいは科学的大発見を成し遂げた人々はどんな人々か。山中新也を見よ。本田宗一郎は部下をスパナで殴ったという。これは現代的には当然コンプライアンス違反だし暴力行為だ。私の年配の知人で国立の研究所で上司にバットで殴られた人がいる。昭和の頃にはこうしたことは結構あったのだ。しかし当人たちは強い信念と使命感を持っていた。本田はとてつもなく大きな目標を持っていたのだ。その一つは今ホンンダジェットとして結実している。こうした人々は他人のコンプライアンス違反とか差別的行動を咎めたりしない。なぜなら自身の目標追及に忙しいから。そうではない人々がそれを声高に叫んでいるように思う。日本はいつから暇人だらけになってしまったのだろうか。

 

最初の部分に戻る。 

タイトルで今回の東大入学式での祝辞を”平成の終わりを飾る”と書いた。これは皮肉でもなんでもない。この上野千鶴子の”祝辞”こそ平成という時代を体現していると思う。元号というのは便利なもので、変わると新たな気分を持てる。新元号になり日本は再生しなけらばならない。今、元気のない日本で必要なことは何か。東大の入学式で平成の次の時代に羽ばたく若者に対する祝辞としては、誠に覇気がない話ではないか。日本に必要なことは若者の欲望を解き放ってやることなのだと心底思う。

東大自身が変わる必要があるのだ。

 

最後に女性差別に関して私見を述べる。

私は女性差別の存在を否定するものではない。女性の”社会的”地位の向上に反対するわけでもない。私の考えはいわゆるリベラル系の人たちの考えと変わるものではない。職場での女性の地位を考えるとき、やはり間近に見る米国の職場環境は素晴らしく思える。(こういうことをあまり書くと、アメリカ出羽守といわれるので普段は控えているが。)しかしその米国でもここまで来るのに100年かかったのだ。

日本の女性差別については独自の歴史的、文化的条件に起因している。しかしそれに加えて多くの物理的条件が影響しているように思う。私の考えるその最大の条件は東京の存在である。この人口3,700万人の世界最大の大都市圏の存在が男女平等参画を阻んでいるのだと思う。そのメカニズムについてはここでは詳しく語らないが、素直に現状を観察すればわかることだ。東京大都市圏は人間が人間らしく生活するには大きすぎるのだ。こうした物理的条件を解消せずに女性差別解消だけを主張するのは単なる精神論に近い。精神論は乱暴だというならば、イデオロギーだ。こうした負の物理的条件が解消されてから、さらに長い時間(100年?)が必要なのだと思う。

私は東京の存在が男女共同参画の最大の障害であるという論に未だお目にかかったことがない。それはそうだろう。一極集中の東京でいい思いをしている(あるいはそのように錯覚している)識者たちが東京解体論を主張するわけもない。

皆さんが素直に自らの目で見て、頭で考えてほしい。

 

とりとめのない話になってしまったが、来たる令和の時代がより元気な時代になることを祈りつつ、筆をおく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワクチンが効くのは何年?

これはとてもは大事なことだが、あまりホントのことは知らされていない(注)。

Scienceサイトの4月18日付のニュース記事にこれに対する答えが書いてある。公開記事なので、興味のある方は読まれると良い。

 

結論を言うと細菌毒素の3種混合、これは破傷風ジフテリア、百日咳だが、前2者に対する免疫はほとんど終生持続するが、百日咳だけは数年で消失する。

生ワクチンの3種混合、麻疹、風疹、おたふく風邪だが、これも前2者に対する免疫は終生持続する。おたふく風邪のみが10年程度で効果を失う。

したがって、これらに対しては再びワクチン接種を受ける必要がある。

面白いのは(面白くない?)のはインフルエンザワクチンだ。これは約90日で感染防御効果が失われる。米国ではインフエンザワクチンの接種は、流行が始まるかなり前に開始される。例えば9月に接種を受けた人は、流行期の1月、2月には既にそのワクチンによる感染防御能は失われている(笑)。インフルエンザに関しては他にも大きな問題がり、もしワクチン株にかなり近いタイプの感染を受けた場合でも罹患することが多い。しかしその場合でも症状の重篤化は防げるので、やはりワクチンを受けることは有益なのだそうだ。

2016年にWHOで、黄熱ワクチンのブースター接種(初回接種で生じた免疫を増強するための追加接種)の必要性が議論された。これは、過去70年間にワクチン接種を受けた540万人の中で、黄熱に罹患したのがわずか12例であったことを根拠にしている。しかしブラジルの報告では過古35年間に黄熱ワクチンを受けた人のうち、459人が黄熱に罹患したという。WHOが根拠にしたデータがどこから出てきたかよくわからないが、ワクチン接種後10年で感染確率が上昇するらしい。WHOが根拠にした数字は、当該ワクチンによって世界のかなり広い地域が黄熱の清浄地になったことに起因しているらしい。

記事ではあまり詳しく触れられていないが、記事中のグラフによると天然痘ワクチンの効果は一生の間に徐々に低下してゆくようだ。既にワクチン(種痘)を受けている人の大部分は感染防御能が低下している。したがって再び天然痘の流行が起これば大惨事になることは想像に難くない。もっとも再流行の可能性はかなり低いが。

最近接種が開始されたワクチンでは、パピローマウイルス(HPV)ワクチンが優れている。まだ30年程度しか歴史がないが、血中中和抗体は良好に持続している。本当にこのワクチンの日本での再開が望まれる。私見だが、女性が接種を受けるのが普通の考え方だが、女性の代わりに男性がもれなく接種を受けても効果は同じで、その集団(つまり日本人)の女性の子宮頸癌の頻度は劇的に低下する。一考を望む。

 

さて科学的(免疫学的)に重要な課題は、なぜワクチン(病原体)によって効果の持続期間が異なるかだ。これについては何人かの専門家のコメントが載せられているが、いずれも”解らない”と言っている。これがわかれば持続期間を延ばせる可能性が出てくる。

 

(注)無論、知ろうと思えば文献に当たれば良い。しかし何しろ病原体の数が多いので門外漢が自分で概略を知るには無理がある。

"Reverse global vaccine dissent"

Science誌最新号の巻頭言のタイトルである。”反ワクチン主義を押し戻せ”とでも訳せるか。著者はHeidi LarsonとWilliam Schultz。ともにLondon School of Hygiene and Tropical Medicineの所属で、前者は教授、後者は大学院生。

 

以下、私なりの翻訳(要約、意訳)。

WHOが今年世界の人々の健康を脅かす10項目のリストに入れているのが”反ワクチン運動(ないしは感情)だ(注)。記事ではナイジェリアでのポリオワクチンへの忌避とそれに起因する世界規模でのポリオの再流行や、日本、デンマークアイルランド、コロンビアにおけるワクチン接種後の疾患が、接種の中止を引き起こしたことが述べられる。さらに特定の宗教では戒律をもとにワクチンの不当性を訴えたり、迷信に基づいて世俗療法でワクチンを代替しようとする動きも絶えない。しかしこうした動きは何も新しいものではない。問題はSNSによってこうした反ワクチン運動、機運が広範囲に拡大している現況だ。

記事の後半では、なぜワクチン接種が必要かという点に論点が移る。そのキーワードとして、集団免疫(Herd (community) immunity)の概念を述べれる。集団が一定以上の割合で免疫を持っていると感染症の流行自体が発生しない。さらに大事なことは、ワクチンを受けられない人々の存在だ。どの社会にも一定の割合で、免疫学的な弱者が存在する。ここには小児、老人、あるいは免疫不全を持った人々が含まれる。臓器(骨髄)移植を受けた患者も含まれる。免疫抑制剤を投与されているからだ。こうしたワクチンを受けられない、あるいはワクチンが無効な人々は、その所属する集団が免役を持っていることにより感染症から守られているのだ。

約20年前、悪名高いAndrew Wakefieldが三種混合(MMR)ワクチンが自閉症の原因となるとする論文を発表した。この説はまたたくまに世界に広がった。これは時を同じくして世界に出現したSNSによるところが大きい。2,010年にWakefieldの論文は撤回されたが反ワクチン感情は一人歩きしてさらに増幅している。

こうした状況を憂慮して、American Medical Association(AMA)は主要なSNS関連企業のCEOに対し、ワクチンに関して科学的に正しい情報だけにユーザーがアクセスできるようにすることを要求した。しかし反ワクチン感情(主義)はすでにその人のアイデンティティーの一部となっていて、そうした人々のネットワークが容易に潰えるとは考えられない(注2)。

最後の部分にこの反ワクチン主義(感情)の克服のための提言が述べられるが、あまりに抽象的なので省略する。

 

以上が巻頭言の内容である。

 

以下、多少の私見を追加する。

 

現実にワクチンによって引き起こされた問題について、記事を書いたことがある。その一つの例はGSKで生産されたインフルエンザワクチンの一つの件。欧州ではこれを接種された人のうち約1.300人(約23万人に一人)がナルコレプシーを発症している。ナルコレプシーは特異な症状を呈する自己免疫疾患だ。GSKの研究者のねばり強い追求の末、製剤に含まれるインフルエンザのNPタンパクの一部が、ヒトの2型ヒポクレティン受容体と類似した配列であることに気づいた。このNPタンパクがワクチンを受けた人の体内で2型ヒポクレティン受容体に対する抗体を作らせ、それでナルコレプシーが引き起こされることが判明した。NPタンパクは本来最終製剤に含まれるべきではない成分だが、どうしても夾雑タンパクとして残ってしまうことがあるのだ。

核酸ワクチンの研究が進んでいるが、この方式だと夾雑タンパクの問題は回避される。

 

ワクチン接種は国単位での仕事だ。世界の主権国家の機能が弱い(例えば内戦状態等の場合)地域では感染症が頻発している。ワクチン接種に伴う副作用、事故など、ワクチンは完全無欠ではない。しかし国、地域で見たときには必ずワクチン接種が行なわれない場合よりも圧倒的にメリットが大きい。

ワクチン接種を推進する側、すなわち国は強い使命感を持ってことに当たる必要があるのだ。最近は問題が起こるとすぐに任意接種になってしまう。当該部局の使命感はあるのだろうか?

国家が責任を持つべき最低限の行政分野は安全保障、外交、公衆衛生等、それほど広いものではない。ワクチン接種の考え方は軍事、国防などと共通する部分がある。全体を守る為に少数の犠牲を受け入れるという考え方だ。この少数の犠牲に報いることはとても重要だが、ここではこの件には深入りしない。少数の犠牲を伴う事業にこそ国が責務を果たす必要がある。この犠牲は理不尽なものであって、ワクチン接種の必要性について、十分に敎育・啓蒙してゆく必要があると思う。

反ワクチン感情を煽る(いわゆる)リベラル系の新聞社は明白に社会の敵である。今後日本で多くの人女性が子宮頸がんで命を失うことが予想されるが、一体誰がこの責任を取るのだろうか?

 

(注)他に気候変動や薬剤耐性菌など。詳しくはWHOのサイトで。

(注2)こうした人々に共通する性向として、反原発、反GMO、向クリーンエネルギーなどがセットで見られることが多い。

ミツバチ殺さぬ「殺虫剤」

日刊工業新聞のサイトに”ミツバチ殺さぬ「殺虫剤」を導き出したAIの貢献度”という短い記事が出ている。あまりに短いのでこの住友化学の試みがどのようなものかは今ひとつ定かではない。

先に昨年11月にScience誌に出された同号に出た研究論文の紹介記事を挙げておく。タイトルは"Pesticide affects social behavior of bees"だ。要するにネオニコチノイド系薬剤が蜂の社会行動に影響を及ぼして、その結果蜂のコロニー維持に支障をきたすという実験結果が得られたという。ネオニコチノイドがミツバチの生死そのものに影響を与えているわけではなく、社会行動の異常によって子孫の繁殖が行われなくなり、結果コロニーが消滅するというわけだ。

但し、ここで紹介された研究ではミツバチではなく、マルハナバチ(bunlebee)が実験材料として用いられているが、この紹介記事ではマルハナを使ったことがこの研究の成功の理由であると述べている。(私にはその理由はよくわからないが。)ミツバチで同じことが起こるかどうかは今のところ不明だが、マルハナバチもいわゆる授粉者(pollinator)として働いているので、この実験結果は実用的価値がある。

最初の住友化学の試みに関する記事では、ハチへの毒性を抑えた殺虫剤の開発にAIを用いたということだ。計算結果に基づいて試作品を合成したところ確かにハチへの毒性の低い成分が合成できたという。

しかし世界的に問題となっているネオニコチノイドもハチへの”毒性”自体ははっきりしない。そこに上のScience誌の論文の価値があるわけだ。住友化学の試みは評価できるとしても、さらにAIには”ハチの社会行動に影響を与えないような”成分を”考えてもらう”ことが必要かもしれない。