メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

合成生物学の勝利?

2014年にSanofiが遺伝子改変酵母を用いて生産された抗マラリア薬を上市したときには、合成生物学の勝利であると喧伝された。

昨年のノーベル医学生理学賞で広く知られることとなったマラリア特効薬アルテミシニン(artemisinin)のことである。これはArtemisia annua(和名クソニンジン)というキク科の植物に含まれるセスキテルペンラクトンの一つで分子量282の物質である。このアルテミシニンの生産法だが、植物体からの収量が低いこと、またその時々の生産量が不安定なために価格が不安定なこと、さらには全化学合成はコスト的に見合わないため、合成経路の酵素遺伝子を導入した酵母を大量培養して生産する方法が試みられた。この論文は2,006年にUC BerkeleyのJay KeaslingらによってNature誌上に発表された。(こちらのサイトでKeasling自身の登場する2,013年の動画付きの記事を見ることができる。)

Keaslingらはクソニンジンにおけるアルテミシニン前駆体(artemisinic acid)の生合成に必要な酵素を同定して、amorphadiene synthaseと新規cytochrome p450 monooxygenase (CYP71AV1)の遺伝子を酵母に導入した。その結果、artemisinic acidを100 mg/Lのレベルで作らせることに成功した。これによりアルテミシニンの前駆体が発酵法によって生産可能となった。これを用いてアルテミシニンの半合成法が確立したのだ。発酵法によるマラリア治療法の主流であるアルテミシニンと他の薬剤との併用療法(artemisinin-based combination therapies, ACTs)への利用への道が開けたのだった。この研究にはビル・ゲイツ財団からの多額の資金援助がなされた。またこの発表がなされた直後には、アルテミシニンの安価で安定的な供給が確保されることが期待する論調の記事が多数出された。

この方式によるartemisinic acidの工業的生産はパリに本社のある Sanofiによって確立され、年産60トンを可能にした。これは全世界の年間消費量の三分の一(!)に相当する量である。Sanofiの目論見としては自らのアルテミシニン生産の原料として用いるとともに、他社にも原料として供給しようとするものであった。このニュースは世界に波紋を広げつつあった。アルテミシニンは世界中のかなり広い範囲に生息しているクソニンジンから抽出している。地域によってはこのクソニンジンを栽培することで生計を立てている農家は数多く存在しているので、発酵法はこうした零細農家の生計を脅かす可能性も指摘されてきた。

ところがここにきて重大な欠点が浮上してきたのだ。これまでにSanofiはこの方式による半合成アルテミシニンをほんの一部しか生産していないのだ。さらにその前駆体artemisinic acidを他社に供給することは全く行われていない。その理由は単純で、従来法(抽出法)のアルテミシニンは売値で$250/kgであるのに対し、発酵/半合成法では原価で$350-400/kgとなりかなり割高になることが判明したのだ。Sanofiにとってよくない状況は他にもある。それはマラリア患者への投薬が、以前とは異なり正確な診断を経た後に開始されるようになったことも影響している。当然以前よりも総投薬量が減ることになる。

こうした新技術の応用での躓きは頻繁におこりうる。実際私自身が約30年前に関わっていたプロジェクトでも結果は同様であった。(チームの名誉のため、具体的な記述は避ける。)そのときは海産魚の腸内細菌の培養液から有用な脂質を抽出精製しようとするものであった。技術的にはそのプロジェクトは成功であった。ところがこのときも魚油(原料費は極めて安価)から抽出した製品のほうが相当安く、結局発酵法による生産は日の目を見なかったのだ。アカデミアをベースにしたベンチャー企業では、アルテミシニン産生酵母に見られたような最新の科学的知見に基づいた、いわば“かっこいい”手法による物質生産を目指すことが多い。確かに初期の段階では非常に魅力的であり、従来法の限界を突破する勢いを見せることがある。しかし最終的にそれらが生き残るかどうかは市場価格に依存する。

しかし一方で今回の発酵法によるアルテミシニンの生産については、この薬剤の価格安定に寄与するという肯定的評価が出ていることも確かな事実である。実際ここ数年間の価格の変動は相当大きい。

 

さて今回この発酵アルテミシニンの躓きを報じたNatureの記事では、このartemisinic acidの発酵生産を可能にした酵母の作出を合成生物学(synthetic biology)と呼んでいる。しかしこれは要するに遺伝子工学にすぎないのではないか? 実際のところ、合成生物学の包含する領域は極めて広く、したがってその定義は曖昧である。合成生物学の問題点についてはいずれ回を更めて議論してみたい。