メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

”酵母は理想的なモデル生物”か?

大隅良典教授が安倍晋三首相と面会した際にオートファジーをデザインしたラベルのついた日本酒を贈ったことがニュースとなっている。このデザインはとてもセンスが良い。

大隅は”酵母は理想的なモデル生物”と述べている。これは本当だろうか? この問題を議論するときりがないので(本当にきりがない)、気がついたことを適当に書いてみる。

この記事について誤りの指摘があったので、その箇所は直しました。11/4/16

⒈ 大腸菌が理想的なモデル生物?

分子生物学の黎明期には大腸菌やファージがモデル生物であった。これは自律的に増殖する生物のなかで実験室で容易に維持、増殖が可能で、”ある程度”単純な生物が大腸菌だったのだ。当時の組み替えDNA技術や塩基配列決定技術が”力不足”であったため、また知識の蓄積が乏しかったので、単純な対象を選ぶ必要があったのだ。大腸菌のゲノムサイズは4.6 Mbである。大腸菌に感染するラムダファージは48,502 bpだ。

大腸菌の研究によりDNA複製機構などの生命の基本的な仕組みが”分子生物学の言葉で”解明された。

大腸菌は高等動植物のモデルとしては自ずと限界があったが、未だにプラスミド作成やタンパク生産で道具として盛んに用いられている。

⒉ 酵母を使って解ること、解らないこと

大隈の用いている酵母とは出芽酵母(budding yeast、Saccharomyces cerevisiae)のことだが、これは筆者が最近論文を紹介したビール酵母と同じ種だ。これはビール、パン、ワイン、日本酒と、幅広い発酵食品を作るのに用いられている。だからこの酵母を道具として用いた研究が最も進んでいるのも自然なことだ。

真核生物なので大腸菌の持っていないシステム、例えば染色体構造(セントロメアなど)や体細胞分裂減数分裂の仕組みの解明には威力を発揮している。DNA複製、DNA組み替え、DNA修復の機構も基本的にヒトのシステムとよく似ている。細胞周期の機構の基本的な部分は酵母によって明らかにされ、これはやがてヒトの発がん機構の解明につながる。

但し、ヘテロクマチンやテロメアの構造は、高等生物とは相当異なっている。ヘテロクロマチンについてはもう一つの実験室酵母である分裂酵母Schizosaccharomyces pombe)の方が高等生物と類似性がある(注1)。

当然多細胞生物で見られる様々な現象、例えば発生・分化、がん化の研究、さらには期間レベルでの生物学、行動・学習等の神経活動の解明には全く役に立たない。こうした意味で出芽酵母は単純すぎる生物であり、ゲノムサイズも小さい(12 Mb)。

⒊ モデル生物の変遷

最初に分子生物学の黎明期には大腸菌やファージがモデル生物として用いられたことを述べた。その後、局面に応じて異なるモデル生物が好んで用いられてきた。私はこのことを理解する上で、2,002年にノーベル賞を受けたSydney Brennerの研究歴を辿るのがよい思う。

Brennerが遺伝生化学の材料として選んだのはアカパンカビ(Neurospora crassa)であった。これは分子生物学以前の仕事だが、タンパクをコードする遺伝子の遺伝様式を探るために、培地組成の単純なアカパンカビを使ったのだ。分子生物学的研究が始まると、他の研究者と同じく大腸菌やファージを用いて研究を行った。やがて分子生物学者の興味が大腸菌から高等生物に移ろうとしていた頃に線虫の一種、Caenorhabditis elegans(いわゆるエレガンス)を選んだ。その理由はこの線虫の総細胞数(および神経細胞数)が常に決まっていて発生過程で全ての細胞がトレースできるからだった。このため多細胞生物の発生過程を追求する上でメリットがあると考えたからだ。しかしやがてこの線虫の発生過程はより高等な生物のモデルとはならないことが明らかとなった。一方、発生過程でのいわゆるプログラム化された細胞死(これは機構的にはアポプトーシスと同じだが)が起こり、かつこの機構がヒトなどにも保存されていたので、こちらの方で先駆的知見を生み出すことになった(注2)。

Brennerのモデル生物追求はこれで終わったわけではなかった。前世紀の終わり頃からヒトの全遺伝子を同定しようとする機運が高まっていた(ヒトゲノム計画)。ところがヒトのゲノムはわずか2%しかタンパクをコードしている配列がなく、その他は非コード領域、あるいはゴミのような繰り返し配列に満ちていることがわかってきた。そこでBrennerはフグ(puffer fish)のゲノムに目をつけた。その理由はフグゲノムがわずか400 Mbと、ヒトゲノム(3.3 Gb)の約8分の1にすぎなかったからだ。フグもヒトと同じく脊椎動物なので、ヒトと同様な身体の仕組みを作り、働かせるのに必要な遺伝子の1セットを持っていて、ゴミ配列の割合は低いはずだと考えたのだ。だから闇雲にゲノム配列を読んでやっても約8倍の確率で構造遺伝子に当たるはずだった。

残念なことに、ヒトゲノムプロジェクトの物量作戦はヒト全ゲノム配列の決定に短期間で成功した。これでフグプロジェクトは意義を失ってしまった。しかしBrennerの研究遍歴からわかるように、モデル生物というものは、その時代の研究領域の要請によって最善のものが異なり、適宜選択してゆく必要があるということだ。

⒋ モデル生物の向き不向き

上に挙げたもの以外にも、ショウジョウバエ、ゼブラフィッシュ(メダカ)、アフリカツメガエル、マウス等、数多くのモデル生物が存在し、それぞれ得手不得手がある。これらの各々について、その得手不得手を書き出すときりがないのでこれ以上書くことはしない。研究の種類、目指すところ、スピード感等、あらゆる状況を総合的に考慮した上で適切なモデル生物を選ぶことが必要であろう。ちなみに米国の主要な医学系研究機関では上記のモデル生物の各々を専門とする研究者を取り揃えるべく努力しているように見える。

しかし次世代塩基配列決定技術に代表されるように、現代の医学生物学は徐々にモデル生物への依存性を低下させつつあるように思う。

最初の問いに戻る。大隈ににとって”酵母は理想的なモデル生物である”。成功したのでこれは正しい。しかし全ての場合にこれが当てはまるわけではない。

 

(注1)各酵母種を用いている研究者たちは、各々自分の使っている酵母の方がヒトなどの高等生物のモデルとしてふさわしいと考える傾向がある。

(注2)この業績で2,002年にノーベル賞を受けた。Brennerは生物学の”次の課題”を見通した上で、それに必要な道具を常に考えてきたのだ。