メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

左右対称な王立ブリュッセル音楽院

ベルギーブリュッセルのテロのニュースを聞いてだいぶ昔の記憶が蘇った。

私はブリュッセルを二回訪れている。一回目は1,984年同国ゲントにおける学会のついでであった。このときはアムステルダムからベルギー入りした。ビクトル・ユーゴーが“世界一美しい広場”と讃えたグランプラス(Grand-place)を始め、かつての栄華の名残をとどめながらも、しっとりとしたブリュッセルの街の佇まいに魅了された。私はまだ20代と若かったので気ままに街中を散策していたら、たまたま王立ブリュッセル音楽院(正式にはKoninklijk Conservatorium Brussel、およびConservatoire Royal de Bruxelles)の前にたどりついた。面白いことにこのルネサンス様式の建物は左右対称型に作られていて、片側がオランダ流もう片方がフランス流の学校で、それぞれ別の言語で教育が行われていた。要するにここでは二つの学校が併設されていて、別々に運営・教育が行われているということを知った。(オランダ流というのは正確にはフランドル流といった方が正確であるが。)実際両者のウェブサイトは全く違った体裁になっているので現在も両者は別物のようだ。

今回のテロではベルギーの警察・公安当局の不手際が指摘されている。そしてその不手際の大きな原因がこの両言語圏のいがみ合いであるという。この国では何か揉め事があるとすぐに北のフランドル地方(オランダ方言であるフラマン語を話す)が分離独立すると言い出す。フランドル地方にはベルギーの人口の60%が住んでいる。南のワロン地方(フランス語を話す)は39%、東部には僅かながらドイツ語を話す人々が住んでいる。経済的にはフランドル地方のほうがかなり豊かであり、新しく強い産業は概ねフランドル地方に集中している。アントワープ、ゲント、ブリュージュなど有名な観光都市も北部に集中している。両地域の境界にある首都ブルュッセルではフランス語が話されるが両言語が公用語として用いられている。

政治経済のみならず、文化的にもこの国は分断されている。文化が言語に根ざしているのでこれは当然のことだが。話を音楽院に戻すと、ここのフランス語音楽院はヴュータン、ヴィエニャフスキー、イザイらの著名なヴァイオリニスト、作曲家を輩出している。これらの芸術家は最盛期にはパリをその活躍の舞台としていた。著名なベルギー人でフランス人と思われている人々は多数いて、その理由は彼らがパリで活躍していたからである。いずれもブリュッセルかワロン地方の出身だ。一方フランドル地方には独自の音楽的伝統があり、20世紀後半からはいわゆる“古楽演奏”に高い水準を達成している。これは北隣のオランダ音楽界の得意とするところだ。絵画ではピーター・ブリューゲル、ヤン・ブリューゲルルーベンスらが16−17世紀のフランドルで活躍した。この人たちはネーデルランドの画家といわれるが、このネーデルランドは現在のオランダではなく、ベルギーフランドル地方である。フランドルには独自の芸術の伝統があるが少しややこしい。

2,005年当時ブリュッセルの王立モネ劇場音楽監督であった大野和士が、ドン・ジョヴァンニの公演で2台のチェンバロを使用した。一台はフランス製、もう一台はフランドル製であったと大野自身が述べている。おそらく外国人にとってもこの国で仕事するときには、この両地域の部妙な関係には気を使わないわけにはいかないのだろう。

10年後の1,994年にもパリの学会のついでにブリュッセルに立ち寄って、たまたま同地に駐在していた大学時代の友人にパエリアをご馳走になった。(ただしそのとき行ったのはスペイン料理店ではなくポルトガル料理店だった。そのパエリアは美味であったが、例えていうと韓国料理店で寿司を食べたようなものであった。音楽は店の主人に頼んでファドをかけてもらったが。)ここにはオランダと違い美味い料理がふんだんにある。私はあいかわらずブリュッセルの街に魅了されたのだった。ブリュッセルにはフランス風の尊大さがない。これは人にも街にもいえることだ。しかしそこには依然としてパリで味わえるような十分な洗練があり、かつ好ましい程度の田舎臭さが感じられる。パリから行くとその違いをはっきり意識することができる。

一国内での地方の多様性を尊重することはとても重要だと思う。しかし、中央(連邦)政府が機能しないようでは話にならない。この中央政府の役割とは、外交、軍事・安全保障、それに公衆衛生である。とりあえず芸術教育はそれほど重要ではない。

ベルギーに行っていろんなことを考えさせられたのだ。