メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

幹細胞維持におけるMYCの役割

“Mycの発現がない状態で細胞は増殖することなく多分化能を保持する“という論文が出た。たいへんわかりにくい表現で恐縮であるが、もとのタイトルは以下の通り。

“Myc depletion induces a pluripotent dormant state mimicking diapause”, Scognamiglio et al., Cell, 164, 668, 2016.

ポイントは幹細胞における増殖するという性質と、多分化能を持つという性質が切り離せる、ということだ。そこで重要な働きをしているのがMYCである。

MYCは3つの類縁配列を持つ転写因子の総称でがん遺伝子だ。これらは各々c-MYC、N-MYC、それにL-MYC。c-MYC(遺伝子はMYC)はiPS細胞を誘導するために必要な山中因子(Yamanaka factors)の一つ。後にMYCは幹細胞誘導には必須ではないことが明らかにされたが、この山中らによる発見がMYCの研究をさらに進めたことは疑問の余地がない。MYCファミリーの研究の歴史は決して平坦なものではなかったのだが、これについては稿を更めて書くことにする。

さて胚性幹細胞(embryonic stem cells, ESCs)は増殖能と多分化能を併せ持っている。実際にマウスのESCsを培養するとよくわかるが、増殖は極めて旺盛で、未分化状態が維持されていればその二倍化時間は8時間程度である。培養中で分化が起こると二倍化時間は延長する。細胞周期プロフィルを調べるとG1期が相当短縮している。こうしたことから、ESCsにおける増殖能と多分化能は不可分であると考えられてきた。

このような認識を補強するデータとして、G1サイクリンを抑制してやるとESCsの多分化能が失われてしまうこと、さらにNanogの細胞増殖促進能がESCsの多分化能に無関係であることなどがある。

LIF存在下無血清培養(LIF/2i)ではESCs はground stateという状態になり多分化能を保つ。このときMYCの発現レベルは低くなっている。さて今回のCell論文である。著者らはこのようなMYCの役割を明確にするために、ダブルノックアウトによりMyc(c-Myc)とN-Myc(N-Myc)の両方をなくしてやると、細胞増殖は停止するが多分可能は保持される状態になっていることを見出した。この事実はこれまでESCsの二つの特徴である増殖能と多分化能は不可分であると思われていたが、この両者は分離できることが示された。

さてこのMYCの除去によつ増殖能が低下した状態は永続的に続くのだろうか? この点を明らかにするために著者らは既知の低分子MYC阻害剤を用いてMYCの一時的な機能喪失を起こした。阻害剤処理はダブルノックアウトのときと同様に増殖停止を引き起こした。しかし阻害剤を除去すると元の旺盛な増殖能が回復し、かつ多分可能も保持されていた。したがって、この増速能の停止(細胞周期の停止)は可逆的で、それはMYCタンパクの有無によって決定される。MYCの回復はESCsの性質の復活をもたらしたわけだ。

こうした特異的阻害剤の使用は観察している現象が一過性かどうかを追求する上でたいへん有効である。むろん阻害剤自体が標的分子に不可逆的に作用する場合は話が別だが。米国の有力大学で早い段階でドラッグ・スクリーニング施設が設置されたケースでは新規医薬の獲得というよりも、こうした基礎研究に有用な阻害剤の取得に主眼が置かれていたと聞いている。いわゆるケミカル・バイオロジーによるアプローチである。(物質取得ではなく、バイオロジーが目的である。)

 

さて現象に戻ることにする。この論文の実験で観察された現象(増殖能と多分化能との乖離)は生理的状態ででは観察されないのだろうか? 著者らはdiapauseという現象に着目した。これは着床前の受精卵が一時的かつ可逆的に胎児の発達を停止させる現象だ。これは多くの動物種で胎児発達にとってあまり好適でない環境が生じた際に起こることが知られている。実際マウスでは卵巣摘出によってエストロゲンを枯渇させてやるとこの状態になり、ここからESCsを作成するのに応用されている。本論文の著者らはこうした状態ではMYCの発現が低下していて、さらにMYC阻害剤の処理によっても同様の状態を再現できることも明らかにした。というわけで、MYCの発現状態やその下流の遺伝子発現を解析することで、diapauseの開始の機構、およびその解除の機構を解明できるものと期待している。

これだけで十二分に面白いのだが、さて同じ号のCellの紹介記事ではさらにこのMYCのシャットダウンによる幹細胞の休眠状態の誘導のさらなる意味を考察している。それはがん幹細胞(cancer stem cells)のことだ。MYCはもともとがん遺伝子としてよく知られ、これを阻害、または抑制してやるとがん細胞が増殖停止、あるいは細胞死を起こすことはよく知られている。(上の論文で用いられた阻害剤も抗がん剤として探索されたものだ。)同様に正常組織でも、例えば血液系細胞の幹細胞から出てきた前駆細胞ではMYCの抑制は激しい細胞死を引き起こす。しかし血液幹細胞そのものは生き残る。仮にがんでも同じことが起こると考えるとどうだろうか? がん組織中の旺盛に増殖している細胞はMYCの阻害で殺せる、しかし大元のがん幹細胞はどうか? もし後者のみが生き残るとすると、結果としてがんの治療効果は一過性であって、やがて再発する。

この問題はがん治療で広く認識されている。がん細胞は殺せるが、がん幹細胞は生き残ってしまうという難題の一部と捉えられる。最近俄然注目されているがんの免疫療法はがん幹細胞を殺すのだろうか? もう答えが出ているかもしれないが、もしそうならばこの方法はやはり画期的ということになる。

 

最後になるが、G1サイクリン阻害剤については薬の”棚ざらし”の問題として話題になったが、そのとき興味を惹いたことがある。それはがん細胞に阻害剤をかけてやると、単に細胞周期が停止するのみならず、激しい細胞死が引き起こされたことだ。上に引用したように幹細胞でG1サイクリンを阻害してやると細胞周期は停止するが、多分化能が失われてしまう。どうやらG1サイクリンの阻害は細胞内環境を不可逆的に変えてしまうらしい。これは何故なのだろうか?