メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

Covid-19の今後 (3)

前回からの続き) 

 

⒊ SARS-CoV-2の感染防御抗原とは(続)

コロナウイルスの名前の由来は、丸い本体から突起が出ている様が太陽のコロナに似ていることから命名された。この突起をスパイクと呼び、この部分が宿主細胞表面にあるコロナウイルスレセプター(受容体)にくっつく。SARS-CoV-2(Covid-19ウイルス)が受容体として使うのはACE2(Angiotensin-converting enzyme 2、アンギオテンシン変換酵素2)という膜表面の酵素タンパクだ。これはSARS-CoVSARSウイルス)の場合と同じだ。

今回の原因ウイルス(SARS-CoV-2)の受容体がACE2であることは、前掲の武漢からのNature論文で示された。そこではHeLa細胞を使ってきれいなデータを出している。SARS-CoV-2はHeLa細胞には本来感染しないが、これはHeLa細胞が表面にACE2を発現していないためだ。そこでヒトのACE2タンパクをHeLa細胞に強制発現してやる。そうすると感染が成立して細胞内にウイルスタンパクが検出されるようになる。コウモリやジャコウネコ、あるいはブタのACE2も受容体として働くが、マウスACE2は受容体としては働かない。マウスがSARS-CoV-2の感染実験に使えない理由がここにある。この実験結果からACE2がSARS-CoV-2の受容体であることは明らかだ(注)。マウスが実験動物として使えないのは研究上では痛手だ。研究者たちが実験動物入手にどのような努力を傾けているかはScience誌のニュースに詳しい。

研究が先行しているSARS-CoVの場合を見てみよう。

SARS-CoVの細胞内への侵入は二段階からなる。最初はスパイクタンパク(Sタンパク)の受容体への結合、次はウイルス表面の膜と宿主細胞膜の融合だ。融合の結果、ウイルスの核酸RNA)が細胞にに注入され、その結果細胞内でのウイルスタンパクが合成され、さらにウイルスRNAゲノムの複製が開始される。Sタンパクは二つのサブユニットからなっていて、前者はS1サブユニット(788アミノ酸残基)に、後者はS2サブユニット(364アミノ酸残基)に担われている。SARS-CoVのスパイクタンパクに関しては、2,009に出された総説にうまくまとめられている。その中に主要な感染防御抗原はSタンパクであることが述べられている。

純化すると、抗体がウイルス感染をブロック(中和)するためには、細胞表面で受容体に結合するウイルス表面の分子に結合する必要がある。このため中和抗体は主にSタンパクを標的にすることになる。

前掲の総説には、 SARS-CoVのワクチンや治療薬の開発の趨勢がまとめられている。ワクチンと抗体製剤の全ては概ねこの考えに沿っている。SARS自体の流行が消滅したので、特に製薬企業の開発意欲がほとんど失われて10年たつ。しかしこのSARS-CoVの研究成果のかなりの部分がSARS-CoV-2にも適用できる。

 

武漢グループのNature論文に戻ろう。著者らは患者血清中にできる抗体をSARS-CoVRp3 タンパクを検出抗原としてELISAを組んでいる。ここで検出される抗体はSARS-CoV-2の感染によって患者の体内に作られると思われが、中和抗体を検出しているわけではない。

前に書いたように、大規模な抗体検査は二つの目的で行われる。一つは流行の動態を知るためのいわば疫学的サーベイランスの一部として、もう一つは個々人がSARS-CoV-2に対する免疫を持っているかどうかを知るためだ。後者の目的のためにはできるだけ中和抗体そのもの、または中和抗体の存在を反映する抗体を検出することが必要となる(注3)。

さらに後者に関しては、抗体の引き起こす負の側面も懸念されている。それは抗体依存性の感染増強(ADE, antibody-dependent enhancement)と呼ばれている現象で、感染後に出現する抗体が逆に感染を増強して症状を悪化させるようなケースだ。これについては項を改めて議論したい。

続く

 

(注)但し、ACE2がヒト体内におけるSARS-CoV-2の”唯一の”受容体であることはこの実験からは証明されない、論理的には。

(注2)しかしこれはSARS-CoVの抗原を用いているので、過去にSARSが流行した地域では問題がある。

(注3)前回述べたように、中和抗体そのものの測定を大規模に行うことは無理である。一般にバイオアッセイをスクリーニング目的で行うことは困難だ。

Covid-19の今後 (2)

前回から続く)

 

⒉ Covid-19の免疫に関する知見:最初のデータ

SARS-CoV-2のヒトでの感染過程での免疫の成立に関するデータは3月12日号のNatureに掲載された。これは武漢の研究グループから出された論文で、Covid-19の信頼できる最初の報告だと思う(注)。内容はたいへん充実していて、新規ウイルス感染症の最初期の論文が載せるべきデータが最低限揃っている。この研究内容の充実度は中国の医学生物学の高い実力を示すものだと思う。

免疫に関するデータの一部を抽出すると、(1) 発症後7日目の患者の血中抗体を調べたところ、IgM抗体は既に出現しており、その2日後にピークを迎えその後低下する。一方IgG抗体はやや遅れて出現し、10日後(発症後12日)に高い値を示しているが、その後の増減は調べられていない。(2) 患者血清中にウイルス中和抗体が検出された。これらは通常ウイルス感染における抗体応答で見られるのと同様の経過である。

この抗体がどのような抗原に対するものかが重要だ。

実験方法の詳細を読むと、ELISA法でSARSウイルスのRp3 N抗原に対する患者血清中のIgM、IgG各クラスに属する抗体量を測定したとある(注2)。SARSウイルスとは今回のCovid-19のウイルスではなく、2,002-3年に流行した初代のSARSのウイルス(SARS-CoV)である。このRp3 Nというタンパクはウイルスの内部のタンパクである。論文にはアミノ酸配列の近縁性を示すグラフが載せられているが、このRp3 Nタンパクのアミノ酸配列はSARS-CoV-2を含むSARS類縁ウイルスの間でよく保存されている領域だ。本来SARS-CoV-2に対する抗体を検出するためにはSARS-CoV-2ウイルスそのもののタンパクを検出抗原として用いるべきだが。推測するに、著者らはこの論文をいち早く出すために、既に手元にあった(フリーザーの中にあった)SARS-CoVのRp3 Nの標品を流用したのだと思われる。ただしこれは大きな問題ではない。実際複数の患者血清を調べたところ、IgM、IgGとも健常人よりも高い抗体値を示したので、SARS-CoV-2感染では一般的なウイルス感染同様に抗体が産生されることが確認された。

しかし最大の疑問はこうして検出された抗体がウイルスの感染を防ぐ能力(中和能)を持つかどうかだ。上のデータで使われたELISA法ではウイルスの内部に存在するタンパクだ。一般に”中和抗体”はウイルス表面のタンパクを標的とするので、別の抗体検出法を用いる必要がある。

中和抗体を検出するためには、実際に感染が起こるような実験系を用いなければならない。既にCovid-19の発生から時を経ずして中国では細胞培養を用いたウイルスの分離、培養に成功している。培養細胞にウイルスを感染させる過程で患者血清を加えてウイルス感染が阻止されるかどうかを調べれば良い(注3)。この論文ではVero E6細胞のウイルス培養系を用いているが、武漢の患者血清がSARS-CoV-2ウイルスの中和能を持つことを示すデータが示されている。

以上を要約すると、3月中旬に武漢から出されたNatureの論文によって、感染の経過に伴ってSARS-CoV-2に対する抗体、なかんずく中和抗体が産生されていることが示された。これらのデータは、このウイルスの免疫応答に関する最低限のデータセットだ。最初の論文としてはこれで十分であり、希望を持たせる結果だ。

⒊ Covid 19の感染防御抗原とは

話を先に進める前に、SARS-CoV-2の感染防御抗原とはどのタンパクなのかを知る必要がある。

ウイルス中和能を持つ抗体を”感染防御抗体”という。”感染防御抗原”はこの感染防御抗体の標的となるウイルス抗原のことだ。

中和抗体の検出はたいへんだ。これは字義通りウイルス感染の中和を”生のウイルス”を用いて調べなければならない。だから一度にこなせる検体数は限られるし、ウイルス感染のための物理的封じ込め施設を備えた場所でしか実施できない。

次回にコロナウイルス一般の感染の初期の過程について振り返ってみたい。このことは中和抗体に関する理解の助になると思う。

続く

 

(注)一般にNature掲載論文を見るには購読していることが要求されるが、Covid-19関連論文はオンラインで誰でも読むことができるようになっている。

(注2)IgMクラスの実験方法については記載が誤っていると思われるが、私の理解が間違っている可能性もある。

(注3)普通は血清の希釈列を作り、何倍希釈までウイルス感染を阻止できるかということで、血清中の中和抗体の力価として表現する。

Covid-19の今後 (1)

約2週間前にCovid-19に絡む記事を書いた。しかしブログの設定変更などの事情のためグラフ付きの文書のアップロードがうまくゆかず、そうこうしているうちに中身が旧くなってしまったので新しく書き直すことにした。

 

かくいう私自身は3月24日から自宅勤務となり、ちょうど1ヶ月が経過したところだ。ここテネシー州シェルビー郡では4月25日現在、感染者数2,001名で郡の人口の約 0.2%、死者数は42名である。もとより在宅では基本的に新データを出す術がないので、もっぱら文献渉猟と過去データからの発掘作業に集中してきた。デスクワークを続けるだけでは不健康になるので散歩をする。この散歩中に一度だけだがアジア人差別に類する被害にあった。しかし暴力を伴うものでもなく、私の心に傷を残したわけでもない。とりたてて騒ぐほどのものではなかった。人の心から差別の感情が完全に消えることはない。有事の際にはこうした差別感情が必ず噴出するのは歴史が示す通りだ(注)。外国で住むためには人との距離感を俯瞰しながらマネージすることが必要なのだ。

さて、日本では緊急事態宣言が出されて3週間近くが経過した。自粛要請から一週間で感染者数の増加が鈍り、さらにその後新規感染者数の減少傾向が見られる。いわゆる自粛によるsocial distance政策はある程度奏効しているようにも見えるが、この減少が始まったタイミングはかなり早い(注2)。この体制を続けるならば新規感染者の発生は徐々に減少していくだろう。しかしそれでは国の経済の破綻を招いてしまう。どのようにして今行われている感染対策を緩めていくかという大問題を解いてゆかなければならない。

 

4月25日現在の日本国内での感染者数を見てみる。これは要するにPCR陽性数だが、Johns Hopkinsの集計によると12,829人である。ざっと1万人に一人ということになる。PCR検査数が少なすぎるので、実数はもっと大きいという批判がある。この批判を考慮してこの数字の10倍を感染者数と仮定する。そうすると約1,000人に一人(全人口の0.1%)が感染歴があるということになる。想定されている基本再生産数R0が2.5とすると、Covid-19の流行が拡がらないために必要な集団免疫は1-(1/R0) = 1-(1/2.5) =0.6 となり、約60%の人々が免疫を獲得することが必要だ。したがって今の社会的経済的制限下での自然感染による集団免疫の成立には、気の遠くなるような時間が必要であることがわかる。一方これを緩めれば集団感染の成立はより短期間で達成される。

問題の焦点は以下のように整理される。

移動制限を緩めて経済活動を再開して感染拡大を受け入れる。しかしこれは患者数の急増をもたらすので医療崩壊を引き起こすであろう。したがって、医療崩壊を起さない方策をとりつつ最大限に感染の拡大を許すということになる。

 

⒈ 抗体検査からわかること

米欧ではCovid-19の流行の実態を明らかにするために大規模な抗体調査が開始されようとしている。目的の一つは感染歴を持つ人々の動態を知ることで、今後の流行の推移を予想すること、もう一つは既感染者の社会復帰をの可能性を探ろうとするのだ。これはその基本に”Covid 19に対する血中抗体を持っている人は、Covid-19に再び感染することがない(すなわち免疫が成立している)”という認識がある。だから抗体保有者から先に”社会復帰させれば”経済活動の再開がスムーズに達成されるという期待が込められている。

抗体検査待望論は要するにこういうことだと思う。

Covid-19の流行で抗体検査を行った最初の仕事はおそらくドイツ(ボン大学)でのものだと思う。これがどの媒体に出された(あるいは出される)のかよくわからないが、とりあえずPDFで見ることができる。内容を要約する。現文はドイツ語だが、Google Translateを用いるとほぼ完璧に英語に翻訳される。日本語でも理解できるレベルに翻訳される。

ドイツ西部、オランダ国境に接するGangeltという人口約 1万2,529人の町がある。ここでは 2月15日にカーニヴァル(謝肉祭)が開催された。これを目当てに多くの人々がここを訪れた結果、地元民が SARS-CoV-2に感染し、その流行は終息していない。この町における流行の状況を把握するために、抗体検査とPCR検査を500人の住民に対して行った。その結果、14%もの住民に抗体が検出された。一方PCR検査で陽性は2%であった。抗体陽性者と累積PCR陽性者の双方から求められた総感染率は15%であった。この新たに求められた感染率15%から致死率(死亡数/感染者数)を算出すると0.37%となった。Johns Hopkinsのデータから求められたドイツでの致死率(死亡数/感染者数[PCR陽性数])は1.98%なので、感染履歴のある人の実数はこれまでPCRで捕捉されてきた数よりも大幅に多いと思われる。

というわけだ。

さらに米国でも、ニューヨークやカリフォルニアでも抗体検査が試みられ、特にカリフォルニアのサンタクララ郡の調査では、PCRで捕捉された感染者の50倍もの人々が抗体を持っていることが明らかにされた。

これをどう捉えるか? もし日本でもPCRで陽性となった人の50倍もの人が感染歴があるとすると12,829 (PCR陽性数) x 50 = 641,450 (既感染数) となり、全人口の0.5%の人々が既感染者ということになる。これは200人に一人だ。さらにこの50倍の感染者数で死亡率を求めると、僅か0.05%と計算される。死亡数/PCR陽性数で計算した従来法での死亡率は2.7%だ。

これを素直に受け取ると、SARS-CoV-2に感染しても大部分は症状を発することなく経過する。発症してもそれなりの治療を受けることにより、ハイリスク群でなければ概ね治る病気であると理解される。巷間よく言われているのは、季節性インフルエンザによる毎年の死亡数を考えるとCovid-19は大した病気ではないということだ。私もそう思う。医療崩壊を無視すればの話だが。

さらに大部分の不顕性感染(inapparent infection)を経た人のかなりの部分が”おそらく”SARS-CoV-2に対して免疫となって、再びこのウイルスの感染を受けるはなく集団免疫の形成に寄与することになるだろうと期待される。

この考えは正しいのだろうか?

続く

 

(注)米国における戦前・戦中の日系人差別の実態を知りたければロスアンゼルス全米日系人博物館に足を運ばれると良い。

(注2)東洋経済のサイトでは移動平均線が出せるので便利だ。

2019 Biomedical Symposium: Germline Predisposition to Cancer

今年のSt. Judeシンポジウムは"Germline Predisposition to Cancer"のテーマで先週金曜日にあった。

Predispoditionとは日本語にしにくい言葉だが、親から受け継いだがん関連遺伝子の変異が、特定の腫瘍の発症頻度を高めかつ発症時期を早めるということだ。

一般的に知られているモデルを挙げる。がん抑制遺伝子の片方のアレル(allele)が最初から失活していて(inherited)、残りのアレルが体細胞突然変異(somatic mutation)を起こすことで両方のアリルが失活する。そのためにがん化が引き起こされるという現象が知られている(注)。これを2–ヒットセオリーと呼び、多くのがん抑制遺伝子で2−ヒットの失活が起こっていることが明らかにされた。これはgermline predispositionの典型的な形だ。

今回のシンポジウムでは、こうしたpredispositionの様相、機構が、21世紀的手法でどのような新展開がもたらされたかを知るための良い機会になると、多少期待していたわけだ。

最初の講演はHospital for Sick Children(トロント、加)のUri Taboriによるもので、演題は "Replication Repair Deciency and Hypermutation: From a Rare Childhood Syndrome to Novel Therapies"。DNAポリメラーゼ(主にDNA polymerase ɛ, POLE)のproofreading変異が、あらゆる種類の腫瘍の病相(特に予後)にどのような影響を与えるかが検討されている。Proofreadingとは、多くのDNAポリメラーゼに備わった訂正機能で、誤ってDNA鎖に取り込まれた塩基を3'-5'エキソヌクレアーゼ活性を使って除去する機能である(注2)。この部分に失活変異があると、DNA複製での点変異の発生頻度が高まる。したがってゲノム上のあらゆる部位の変異頻度が上がり、がん化に関与する遺伝子に変異が起こる頻度も飛躍的に高まるのだ。

従来こうした点変異が頻発する腫瘍として、HNPCC(Hereditary nonpolyposis colorectal cancer, Lynch syndrome)がよく知られてきた。この疾患群ではいわゆるミスマッチ修復(MMR)遺伝子群のいずれかにgermline mutationがあると、他方のアレルの失活により大腸がんとなる。こうしてできたがん組織のゲノムDNA上には点変異が通常よりも高頻度で起こり、殊に2塩基あるいは3塩基配列の多数繰り返し領域(マイクロサテライトと呼ばれる)の繰り返し数が不安定となる。このマイクロサテライト不安定性がHNPCCの重要な診断基準となっている。

ところがDNAポリメラーゼのgermline mutationある場合は、MMR遺伝子変異がある場合に比べさらに高頻度にゲノム上の点変異が頻発することが明らかとなった。DNAポリメラーゼ変異とMMR遺伝子変異は一つの腫瘍で共に起こることがあり、その場合は予後は極めて不良であるという。

さて、現代はビッグデータの時代である。上記のMMRの変異があるもの、POLE、さらにはこれら両方に変異のあるもの、それらについてデータベース上の大量のデータから、これら3つのカテゴリーの腫瘍におけるゲノム変異の特徴を抽出したのだ。演者は小児病院の研究者なので、手元にある検体は当然小児の腫瘍のものだ。しかしデータベース上にはより多量の成人腫瘍のデータが蓄積している。そこで演者は成人、小児の両方をデータを解析することで、各カテゴリーのゲノムの変異の仕方(書き換わり方)を抽出したのだ。さらにそのゲノムの書き換わり方から、MMRとPOLEのどちらに先に変異が入ったかが予想できるという事実を導き出している(注3)。ビッグデータの勝利である。

視界が開けるという感覚、これは新技術が出現してきたときにしばしば感じる感覚だ。

(続く)

 

注)このことが最初に示された最初の例は、小児の網膜芽腫で、初めは統計学的解析で、ついで実際のRb遺伝子クローニングとそれに基づいた腫瘍DNAの解析によるものだった。統計学的解析を行ったのはフィラデルフィアAlfred Knudsondだ(1971)。Knudsonはノーベル賞の有力候補と思われていたが、残念ながら2016年に亡くなってしまった。

余談になるが、がん抑制遺伝子領域のノーベル賞は未だ出されていない。この分野で大きな貢献をした研究者の数が多すぎることとか、ノーベル委員会ががんに対する授賞を好まないことなど、いろんな噂がある。

さらに余談になるが、今年も来週がノーベル週間となる。ノーベル賞の予想とは、実際にはいかなるカテゴリーが設定されるかによるので、仮定を設けて初めて可能となる。

既にネット上には予想がたくさん出ているので、私的予想を書いておく。

(とても考えにくいことだが)もし古遺伝学に領域が設定されれば、Svante Pääbo。

もしインフルエンザウイルスに設定されれば、Robert Webster(これも少し考えにくいが)。

注2) DNAポリメラーゼ ɛタンパクは複数のドメインからなるが、このうちexoと呼ばれるドメインがproofreadingの活性を担う部分だ。 germline mutationが起こるのはもっぱらこの部分だけであり、全タンパクが欠失するような変異は決して見いだすことができない。その理由は明快で、そのような細胞ではDNA複製が起こらず、従ってがん細胞が生じないからだ。

注3)記憶が定かでないので、ここではその詳細は書かない。 

 

 

 

大著 "Origins" を読む

長い時間を費やしてようやく”Origins: How the Earth Made Us"を読了した。これはLewis Dartnellという人物によって著された本だ。Natureの書評に取り上げられていて、面白そうだったので購入した。

"Origins(起源)"とは、ダーウィンの”種の起源”を連想させるタイトルだが、副題には”いかにして地球が我々を作ってきたか”とある。著者はastrobiology(宇宙生物学)を専門としているということだが、あまり聞いたことがない不思議な分野だ。この本で描きたかったものは、主に地球が現在の姿になる過程で起こった出来事が、どのように我々の文明の成立と変遷(歴史)に影響を及ぼしたかということだ。主に地学的な出来事と、その人類史への影響が語られる。

 

内容を詳しく紹介することは避けるが、章立ては以下のようになっている。

1.  The Making of Us【我々(人類)を作るということ】

2.  Continental Drifters【大陸の移動】

3.  Our Biological Bounty【生き物ができてきた道筋】(訳が困難)

4.  The Geography of the Seas【海洋の地理】

5.  What We Build With【我々は何を材料に建ててきたか】

6.  Our Metal World【我々の住む金属の世界】

7.  Silk Roads and Steppe Peoples【シルクロードと草原の人々】

8.  The Global Wind Machine and the Age of Discovery【地球の風の動きと発見の時代】

9.  Energy【エネルギー】

 

内容が多岐にわたるが、基本的なスタンスは現在の地球の表面が形成される過程で引き起こされた出来事が、人類の辿ってきた道筋にどのような影響を与えてきたかを考察している。それを細部にわたって語る。

実際のページ数は300ページをやや下回っているの。これは英語による科学的な書物の標準的なサイズだ。しかしそこに詰め込まれたものは、地球の発達史から始まり、陸地と海の形成過程、されに文明のあり方を建築、金属、人々の移動(交流と抗争)、大航海時代の開始の要因、さらに現代の最重要課題であるエネルギー等と、およそ人類文明を形成してきたあらゆる側面について論じている。ここで著者に要求される学識を挙げると、地球物理学、地質学、生物進化史(特に人類進化)、化学、鉱物学、金属学、資源学、資源化学、海洋科学、歴史学、地理学等、超人的な範囲に亘る。こうした理由で、私はこの書を大著とみなしたのだ。

他にこうした気宇壮大な書物としてダイヤモンドの”銃・病原菌・鉄”が挙げられる。このような気宇壮大な構想のもとに著された書物を読むと、読書前とは世界が違って見えることが多い。日本人の手による大著としては、惑星物理学者松井孝典による”宇宙誌”が挙げられる。

とにかくこの”Origins"に関して私がその一部を切り取って解説することや、論評することはとても無理で、是非ご自身で一読することをお勧めする。

 

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ジーン・ドライブは世界を救うか?(続き)

前回からの続き)

 

Nature誌のgene-driveに関する5つの以下の疑問とそれらへの答えをみていこう。

1.そもそもGene driveは有効に働くのか?

Gene driveによって有害昆虫を撲滅(または無害化)するということは生態系に対する挑戦である。野外では人の作ったものは最初はうまく機能するが、我々はやがてそれは自然の仕組みよって無効化される例を見てきた。GMOがそうだ。

Gene driveにおいてもショウジョウバエやハマダラカ(Anopheles gambiae = マラリアの媒介カの中で最重要な種)の研究室内の実験では、CRISPRの標的配列の変異が集団内で蓄積してくることが明らかにされている。しかしこれを克服する術は存在し、標的遺伝子を適切に選択することでなされる。その例としてCrisantiらの実験が取り上げられている。そこではネッタイシマカdoublesex遺伝子が標的とされている。doublesex遺伝子の失活変異はメスの繁殖能力を失わせる。だからこの遺伝子の変異を持った個体は子孫を作れず集団中に蓄積しない。したがって耐性個体が蓄積してこない。この遺伝子をCRSPRの標的とすることで100%の変異を誘導できたという(注)。

一方、マウスでのgene driveの実験では変異率がそれほど良好ではない(約70%)ことが報告され、さらに多くの実験が必要であるという。

2.他のどんな領域でgene driveが役に立つか?

カはこの領域では主要な標的動物だ。それ以外にどんな標的が考えられ、さらに実験に供されているのだろうか?

ある種の生物は遺伝子改変が困難である。例えばCandida albicansだ。ここではgene driveを用いてC. albicansで100%の変異率を達成した仕事が紹介されている。未だラボラトリーマウスでのgene driveの試みは満足できる結果をもたらしていないが、Genetic Biocontrol of invasive Rodents  (GBIRd)という団体のプランは野心的だ。このGBIRdというのは大学、政府、非政府機関からなる共同プロジェクトで、離島に侵入した外来齧歯類の駆除を目標としている。これを主導しているのはテキサス農工大学(Texas A&M Univ.)と豪アデレード大学のグループだが、現在はまだ実験室段階で実現にはさらに数年を要するという。

カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)の研究者はネッタイシマカAedes aegypti)を対象とする研究を進めている。これはデングウイルスの四つの血清型に対する抗体を産生するカを作出し、これらウイルスを媒介できなくするのが目標だ。さらに野心的な試みは、いかなるウイルスがネッタイシマカに感染してもある種の毒素が産生されるようなカを作ろうとしている。これによりネッタイシマカがウイルス媒介昆虫として働かないようにしようとするものだ(注2)。

3.Gene driveは制御可能か?

Gene driveの概念はこれまでの遺伝子改変生物とは全く異なる。それは変異体が環境中で同じ変異を持った子孫で野生型を駆逐するようにデザインされている。こうした改変体が自然界で繁殖して制御不能になったらどのように対処するのか? CRISPRを用いたgene driveの創始者Kevin EsveltとGeorge Churchは、一度作った変異を上書きして元に戻すようなgene driveを作成している。

現在米国ではUS Defense Advanced Research Projects Agency (DARPA)とUS Department of Defense (DOD)が多額の研究資金鵜を投じてこうしたgene driveを無力化する方策の研究を進めている。ここでは詳細は省略する。余談ながら、米国政府はこのgene driveが安全保障上の重大課題と考えているようだ。

4.Gene driveの野外試験はどのようになされるのか?

上記Crisantiらはこれまでの実験室スケールを上回るサイズのより自然界に近い条件での室内(ケージ)実験を実施した。その主眼の一つは、自然界で起こるオスのスウォーミングという行動がgene driveの伝搬に寄与するかどうかの確認だ。このスウォーミングは繁殖においてメスを引きつけるための行動だ。結果は有望であったという。こうした大型ケージでの実験においても、これまでのところ耐性個体は見つかっていないと言う。

こうした大規模ケージでの複数の実験で問題が見つからなければ、これら技術を他の研究主体に引き渡すつもりであるという。そこで野外試験が計画され、政府の当該部門からの認可に向けての仕事が始まるわけだ。

Target Malariaという団体は名前の通りgene driveでマラリアを媒介するハマダラカの撲滅を最終目標にしている。この団体はブルキナファソ国内と周辺国の4万箇所に上る放飼拠点を設定し、地形や降雨などの影響を考慮しながら、放出されたカの動態を把握しようとしている。これまでの結果は一回だけの放出では不十分で、2−3年間隔での再放出が必要であることを示している。

大きな懸念はgene driveの実施が自然界の生態自体を変えてしまう懸念、あるいは仮にマラリア媒介昆虫としてのハマダラカが撲滅されても、他の種がマラリアを媒介するようなことが起こらないとも限らない(注3)。こうした諸問題についても専門家の間で議論されている。

5.誰がgene driveの実地応用を決定するのか?

通常の医薬品であれば認可申請に必要な準備期間は1−2年である。しかしgene driveではさらに長期間を要する。昨年NIH内に設置された15名よりなるワーキンググループはサハラ以南でのgene drive実施について多くの勧告を出した。

この中で力説されたのは、現地のコミュニティーと科学者が協力してこの技術に関して理解を深め、それによりこの技術をより適切にコントロールするべきであるというものだった。

さらに現地(ブルキナファソ)の研究者は、近い将来こうした技術が当該国の研究機関で作出されるようになることを希望していると述べている。また既に現地では従来型の改変昆虫の試験的放飼も開始されている。こうした身近な営為は人々の新技術に関する理解を深めさせるのに役立つと予想される。

 

最後になるが私見を簡単に述べる。

Gene driveにかかわらず、いかにして新しい技術が社会に導入されてゆくかというのは現代の大問題である。特にgene driveはその技術の性質上、変異体の野外放出が最初から想定されている。Gene driveの効率が100%であれば環境中の当該生物の全てが置き換わる。この際予期せぬ不都合が生じた場合にどのように対処すれば良いのだろうか? 

それへの対処法としては、有効性、結末を確認するために地理的に隔離された場所から実施するのが良いと思う。Gene drive以前の技術を用いた遺伝子改変ネッタイシマカの野外試験が英領ケイマン諸島で実施されている。実際この試験の成績はそれほど芳しいものとは言えなかったが、このケースは一つの試金石とな流だろう。仮にgene driveで同様の野外試験がこうした離島で奏功するならば、次の段階として大陸での大規模試験の可能性が開けると思う。同時に年余にわたる観察の結果、上に挙げたような不都合が事態の存在も明らかになろう。

さて今回のNature記事の最後の部分(誰がgene driveの実地応用を決定するのか?)に特に注目して読んだわけだが、やや期待はずれの感が否めない。それは国際的なガイドラインの策定などに関する記述がなかったからだ。そうした国際的な枠組みの議論はどこでなされているのだろうか? 記事では比較的明るいトーンでgene driveの未来を記述しているように思えたが、これはよろずpro-technologyの態度を持っているNatureの性格を反映していると思う。

 

一般論だが、こうした社会に対して大きな影響を与えうる技術の開発や規制に関する議論が日本では十分でないように思われる。Gene driveはCRISPRをベースにしているので、手法的、原理的にはゲノム編集の一部と考えることができる。しかしgene driveで野外に放出する変異体は上図に描いたようにCRISPR-Cas9カセットを持っているはずなので、単なるIn-del変異体とは異なり”外来遺伝子”を持った変異体が野外に放出されることになる。ゲノム編集生物の評価についてはこの外来遺伝子が含まれるかどうかがポイントとなる。したがって、これら変異体の環境への放出については十分議論がなされることが必要だと思う。但し日本でgene driveが必要となる事例が存在すかどうかは今のところ定かではない。しかしこの点に関しては、現時点では人々の頭が最初からその可能性を排除しているように思う。そして何よりもgene drive自体に関する理解が全く普及していない。

 

(注)当然この遺伝子のgene driveを仕組んだオスを放つことになる。

(注2)この場合はネッタイシマカの生態そのものに影響を与えるわけではない。

(注3)マラリアを媒介するカは世界全体では60種にも上る。

ジーン・ドライブは世界を救うか?

もう4年も前になるが、gene drive(ジーン・ドライブ)という技術に関する記事を挙げておいた。最近のNature誌にこのgene driveのその後の展開に関する記事が載ったので紹介したい。

 

最初にこの技術について原理をを簡単に要約する。

CRSPR/Cas9によるゲノム編集の機構については既に広く理解されている通りだ。最初にガイドRNAに導かれてCas9タンパクによる部位特異的DNA鎖の切断が起こる。次いでこの二本鎖DNA切断の修復が行われる。この際Non-homologous end joining (NHEJ)による修復が発動すれば、切断部位の欠失や挿入が生じる。これにより当該遺伝子の失活が起こるわけだ。

この技術の発展型として、両端に相同配列を持った外来遺伝子を共存させてやれば、この配列が切断された座位に収まる。これは相同組み換え修復(Homologous recombination, HR)によって行われる。

Gene driveはこのHRによる外来遺伝子の挿入を利用している。下にgene driveのプロトタイプの模式図を前回の自分の記事からコピーしておいた。最初の段階で、CRISPRによって標的配列の二本鎖断裂(DSB)が起こる。この際両端に相同配列を持ったCRISPRカセットがあれば、このDNA断片はHRにより標的配列の座位に収まる(II、Allael 1)。次にAllele 1から産生された CRISPRによってAllele 2の標的配列でもDSBが起こる。この断裂がHRで修復される際にHRの鋳型としてAllele 1が使われる。結果としてCRISPRカセットがホモ接合になった細胞が得られる(III)。この状態においては、既にCRISPRの標的配列がゲノム上に存在しないので、CRSPRは無害である。

もしこのホモ接合のCRISPR産生細胞が生殖細胞系列に入れば、ホモ接合の精子または卵子が次世代(F1)の受精卵のゲノムを構成することになるが、これは本来ヘテロ接合だ。しかし受精卵中でCRISPR→DSB→HRによる相同組み換えが生じ、結果F1の体細胞全体もCRISRホモ接合となってしまう。

すぐに分かるように、仮に自然界に(特にオスの)CRISPRカセットのホモ接合体の個体を放ってやれば、野生型個体と交尾した結果ヘテロ接合の受精卵が生じる。これはすぐにホモ接合になる。したがって、自然界での野生型は少ない世代数で駆逐されてしまうことになる。これは離島のような隔離された場所では特に有効だ(注)。原理的には駆除が成立することになる。

したがって、CRISPRによる標的遺伝子として有害な形質を与えるような遺伝子を選んでやれば、その地域に生息する集団中から有害な個体が排除されてしまうわけだ。この有害な形質には、例えばある種のウイルスを媒介するのに必要な性質などが想定される。

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Nature誌の記事では、アフリカにおけるマラリアの媒介昆虫である蚊を制御することを目標として、gene driveを進めているAndrea Crisanti(Imperial College London)らの取り組みが紹介されている。順調にゆけば3年以内に野外への応用が実現するであろうという。

この技術の野外応用に際し最も重要な課題は技術そのものではなく、それをめぐる制度の策定、社会的受容の獲得、あるいはアフリカのような大陸国家群では外交的協調などが重要であると関係者は口を揃える。既にCRISPRの実地応用について中国での未承認のヒト臨床応用で大騒ぎになったように、こうした革新的技術の実地応用については最初の試みが失敗すると長い期間の休止状態になることが多い。社会的アレルギーが形成されるからだ。初期の遺伝子治療の試みもそうだったし、古くは日本で最初の心臓移植など(の失敗)の例を挙げればすぐに理解できると思う。

 

さて世界の科学情報局ともいえるNature誌はgene-driveに関する5つの以下の疑問を設定して、それらへの答えを提出している。これらはいずれも妥当な問いだと思われる。

 

1.そもそもGene driveは有効に働くのか?

2.他のどんな領域でgene driveが役に立つか?

3.Gene driveは制御可能か?

4.Gene driveの野外試験はどのようになされるのか?

5.誰がgene driveの実地応用を認可するのか?

 

(続く)

 

(注)離島における従来法による害虫駆除については、以前南西諸島のウリミバエの成功例を紹介しておいた。駆除における数理的予想はgene driveでも似ているが、世代ごとの野生型の減少効率が著しく向上するところが異なる点だ。