メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

平成の終りを飾る上野千鶴子の”祝辞”

あまりにも多くの人々が論評している例の件だ。私が一万キロ東から常々感じていたことを書いてみる。(但し、私は政治学者でもなく、社会学者でもないので、かなり変なことを書いてしまうかもしれない。)

このブログのテーマである”主に生命科学と社会を考える”とはあまり関係ないようだが、微かに関係があることはある。

 

ここ米国では共和党のトランプという人物が大統領の職に就ている。この人物は見かけ通りに自身の欲求とか欲望に忠実なのであろう。今日の論点(というほどのものではないが)の一つは、この”欲望に忠実”ということである。

 

民主主義を構成している二大原理というものがある。言うまでもなくそれは”自由”と”平等”だ。原理と書いたが実際は民主主義社会が実現しようとしている理想である。だからこれらは原理ではなく”イデオロギー”と呼ぶべきなのだ。

実際この”自由”というのが曲者だ。各人が各々の自由を極限まで追求すれば、世の中は相当鬱陶しいことになる。どこかの先生が学士会報に書いていたが(失礼ながら、著者名は失念)、フランスとイギリスでは自由の概念が多少異なるという。前者(仏)では主に政治的自由が、後者(英)では経済的自由が大事だというのだ。米国はアングロサクソンの国として成立したので、この国では経済的な自由が重きをなしている。

問題は、各人が経済的自由を追求すると、誰かは金持ちになれるがすべての人がそうなるわけではないと言う冷厳な事実だ。だから経済的自由の追求は結果として不平等をもたらす。

この観点に立つと、”自由”と”平等”は相反するものである。別の言い方をすると”自由”と”平等”は対立概念であるということができる。(この点で日本の政党は自由も平等も一緒くたで、その点においては与野党に違いがない。だから常に対立軸がはっきりしない。)

 

ある時期に経済的自由が追求されると、それは富の分配の不平等をもたらす。これは放置すると社会に不満が蓄積して社会不安(暴動など)を引き起こすので、いずれ解消されなければならない。それを富の再分配(例えば累進課税)とか、社会福祉とかで解決しようとするのだ。(ちなみに消費税は逆進性があるので弱者をいじめる馬鹿な制度だ。)

大雑把にいうと、前者(自由)の実現を目指しているのが共和党で、後者(平等)の実現を目指しているのが民主党だ。だからトランプという人物が欲望に忠実であるように見えるのはとても自然なことだ。共和党政権で富の総量を増やし、その蓄積でもって民主党政権がその再分配をする。パイの拡大とその分配が交互に行われるわけだ。これが米国流二大政党による政権交代の大雑把なメカニズムだ。伝統的には英国の保守党と労働党の関係もこれに近い。(尤も最近の英国は多数党乱立の傾向のようだが。)

 

例によって前置きが長くなったが、平成時代の日本について考えてみよう。すでに多くの人々が書いているので今更の感があるが、私はこの間の日本では”人々の欲望が自己抑制された”と考えている。経済的自由を追及する(つまり金持ちになろうとする)ことは自己の欲望の発露の代表的なものであろう。多くの人々が経済的成功を目指そうとすれば、リスクを取って投資がなされ、それは結果として国の経済の活性化につながるであろう。

しかし実際はどうか? 人々はリスクを取らなくなった。今またマイナス成長になったいるらしい。経済的リスクはもとより、対人関係のリスクも取らなくなった。その結果が童貞率や未婚率の急上昇であり、少子化の進行である。欲望はどこに行ってしまったのだろうか。

結果、経済的にも対人的にも平等に貧しくなった。それでいいのだろうか?

 

話が飛躍するようだが、平成は過剰なコンプライアンスの時代だったと言われる。コンプライアンスとは欲望の発露と対立するものだ。世にいうリベラルの人々は差別とか、平等とか、こうした観念ばかりを強調して、人が本来持っている欲求とか欲望などをおよそ無視している(ふりをしている)、ないしは抑え込もうとしている。間欠的に出現する不倫報道はその最たるものだ。不倫は不道徳なものだが有史以来それが無くなったためしはないのに。こうした傾向は大手マスコミを始め、政治家、官僚、さらには大学教授の間に蔓延している。(そのくせ保身への欲求は高度に発達している。)

戦後教育の成果、ここに極まれりというべきか。

 

世の中で飛躍的な進歩を産み出すのは、どのような人々なのだろうか。ホンダやソニーを裸一貫で気づいた人々を見れば良い。あるいは科学的大発見を成し遂げた人々はどんな人々か。山中新也を見よ。本田宗一郎は部下をスパナで殴ったという。これは現代的には当然コンプライアンス違反だし暴力行為だ。私の年配の知人で国立の研究所で上司にバットで殴られた人がいる。昭和の頃にはこうしたことは結構あったのだ。しかし当人たちは強い信念と使命感を持っていた。本田はとてつもなく大きな目標を持っていたのだ。その一つは今ホンンダジェットとして結実している。こうした人々は他人のコンプライアンス違反とか差別的行動を咎めたりしない。なぜなら自身の目標追及に忙しいから。そうではない人々がそれを声高に叫んでいるように思う。日本はいつから暇人だらけになってしまったのだろうか。

 

最初の部分に戻る。 

タイトルで今回の東大入学式での祝辞を”平成の終わりを飾る”と書いた。これは皮肉でもなんでもない。この上野千鶴子の”祝辞”こそ平成という時代を体現していると思う。元号というのは便利なもので、変わると新たな気分を持てる。新元号になり日本は再生しなけらばならない。今、元気のない日本で必要なことは何か。東大の入学式で平成の次の時代に羽ばたく若者に対する祝辞としては、誠に覇気がない話ではないか。日本に必要なことは若者の欲望を解き放ってやることなのだと心底思う。

東大自身が変わる必要があるのだ。

 

最後に女性差別に関して私見を述べる。

私は女性差別の存在を否定するものではない。女性の”社会的”地位の向上に反対するわけでもない。私の考えはいわゆるリベラル系の人たちの考えと変わるものではない。職場での女性の地位を考えるとき、やはり間近に見る米国の職場環境は素晴らしく思える。(こういうことをあまり書くと、アメリカ出羽守といわれるので普段は控えているが。)しかしその米国でもここまで来るのに100年かかったのだ。

日本の女性差別については独自の歴史的、文化的条件に起因している。しかしそれに加えて多くの物理的条件が影響しているように思う。私の考えるその最大の条件は東京の存在である。この人口3,700万人の世界最大の大都市圏の存在が男女平等参画を阻んでいるのだと思う。そのメカニズムについてはここでは詳しく語らないが、素直に現状を観察すればわかることだ。東京大都市圏は人間が人間らしく生活するには大きすぎるのだ。こうした物理的条件を解消せずに女性差別解消だけを主張するのは単なる精神論に近い。精神論は乱暴だというならば、イデオロギーだ。こうした負の物理的条件が解消されてから、さらに長い時間(100年?)が必要なのだと思う。

私は東京の存在が男女共同参画の最大の障害であるという論に未だお目にかかったことがない。それはそうだろう。一極集中の東京でいい思いをしている(あるいはそのように錯覚している)識者たちが東京解体論を主張するわけもない。

皆さんが素直に自らの目で見て、頭で考えてほしい。

 

とりとめのない話になってしまったが、来たる令和の時代がより元気な時代になることを祈りつつ、筆をおく。