メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

21世紀の麻疹

先週ジョンズ・ホプキンス大学Diane Griffinの講演があった。タイトルは”Understanding Measles in the 21th Century”だ。

話は1,846年のフェロー諸島での観察記録から始まった。Peter Panumという医師がこの諸島での麻疹(measles)の発生を注意深く観察した結果、その潜伏期と終生免疫を発見したという。ここでは離島という閉鎖空間での観察が奏功したのだ。

そのとおり、麻疹ウイルス感染では終生免疫が続く。それに先進国ではワクチンが普及したことによって、麻疹の流行は大きな問題ではなくなっていた。そのために麻疹自体の研究は滞ってしまった。昨日の講演は、こうした少し置き去りにされた麻疹の研究についての比較的新しい知見を含んだ話だった。

最初に麻疹の免疫の話。麻疹感染では免疫抑制がかかる。麻疹感染による致死率とは、この免疫抑制に起因する二次感染の寄与が大きい。麻疹ウイルス(MeV)の感染後約2週間でIgMが、約3週間でIgGが誘導される。麻疹の主兆である皮膚の発疹はこうした特異免疫が出現してくる頃に見られる。この発疹の病変にはCD4、CD8陽性のT細胞がともに存在し、免疫細胞の関与が明らかである。この時期を過ぎると、ウイルスは”概ね”排除される。

しかしMeVに対する免疫についてはよくわかっていない。上のように獲得免疫は感染後2−3週間で上昇してくるが、体内(主にリンパ節)のウイルスは完全に駆逐されることはなく、半年程度リンパ節に残っている。こうした知見はアカゲザルの感染モデルによって明らかにされた(注1)。こうした長期間にわたるウイルスの持続がなぜおこるかについては不明だが、麻疹ウイルスに対する中和抗体価は長期間にわたって上昇を続け、かつ抗体自体の親和性も徐々に上昇してくる。このことから、MeVに対する免疫はストレートに成立するのではないことがわかる。

後半はワクチンの概略についての話だった。麻疹ワクチンは孵化鶏卵で長期間継代して作出した古典的生ワクチンである。感染防御抗原はウイルス表面のヘマグルチニン(H)タンパクだ。この分子自体は抗原的にきわめて安定で、1,906年に作出されたワクチンが現在も有効だ。ただし麻疹ワクチンが接種後何年程度有効かについては不明である。

最近の問題としては、先進国におけるワクチン接種率の低さがある(注2)。スイスの事例が示された。スイスでも麻疹の発生がほぼなくなったので、ワクチン接種を”任意”にしたところ、今世紀になって多数の小児感染がおこったことが紹介された。

集団免疫に必要な接種率と有効性はどの程度かという見積もりがあった。ともに95%程度が必要であり、接種率については特に途上国では大きな問題であることが述べられた。アンゴラでの調査では、ワクチン接種に消極的な理由が調査で明らかになっている。それらは (1) ワクチン接種のための時間が取れないこと、(2) ワクチンが危険であると考えられていること、(3) 接種のための列に並ぶことが億劫であること、であった。演者はワクチン開発はほんの一部であって、deliveryこそが大事な部分なのだと述べた。このdeliveryについては、途上国では貧弱な社会インフラと予算の不足が、先進国では宗教的、信条的理由によるワクチン不接種が指摘された(注3)。

最後にSSPEの問題について言及したい。SSPEとは亜急性硬化性全脳炎(Subacute sclerosing panencephalitis)の略である。これは麻疹の自然感染の後、6−10年の後に起こり、致死的である。自然感染小児10,000人のうちの1人がSSPEを発症する。感染したMeVの一部が神経細胞に親和性を獲得し、cell-to-cell型の感染を起こすようになったものだ。この神経細胞での持続感染は液性免疫から免れている(注4)。SSPEの存在は、小児への麻疹ワクチンの接種が必要であることを示している。

麻疹の例からわかる通り一つの感染症を無くするには科学研究も重要だが、その先のこと、つまり公衆衛生の政策としての実現可能性が問われる。これは統治の安定性、インフラ整備、さらに最も重要なことは教育・啓蒙である。

 

(注1)小動物では麻疹の感染モデルは存在しない。

(注2)カリフォルニア州では88%が麻疹ワクチンを接種していない。先進国でワクチン接種を受ける必要がないと考える人々は比較的高学歴でリベラルな考えの人が多い。私見だが、概ね反原発、反ワクチンがセットになると思う。こうした人々は国や社会の安定にある程度のコストが必要であるということを理解していない。私は、主権国家の保持、経済活動の維持、公衆衛生の向上、この3点セットを意識することが人々の幸福にとって重要であると考える。この点については再び議論してみたい。

先進国におけるワクチ忌避の感情を広めたきっかけは、麻疹を含む3種混合生ワクチン(MMR)が自閉症を起こしたとする英国の医師による論文である。これは後に捏造論文であることが発覚し、著者Andrew Wakefieldは英国での医師免許を剥奪された。この12年間に反ワクチン感情が広まってしまった。

(注3)途上国の多くが統治機構に問題があったり、内戦状態になっていることがある。こうした国々ではワクチン接種が計画どおりに実行されることは困難だ。エボラウイルスのワクチン試験でもこうした困難があったことを私も紹介している。

(注4)MeVに近縁なウイルスに、牛疫ウイルス(rinderpet virus)、イヌジステンパーウイルス(canine distemper virus、CDV)がある。これらはともに重要な家畜の感染症の原因だ。ジステンパーの主要な症状は神経症状であり、このウイルス群の神経向性は明らかである。こうした動物種を越えた比較感染症学は疾患の発症機序を理解する上で重要だ。