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メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

言語と生物種

先週ケニヤ人が加わった。これで研究部の中にスワヒリ語話者が3人になった。国名でいうとケニヤとルワンダだ。この人たちは皆自分のことをスワヒリ語を話すというが、お互いのスワヒリ語は相当違うという。

同じ階にはたくさんのインド人も働いている。しかしこの人たちの母語はそれぞれ違う。テルグ、タミル、カンナダ、ヒンディ、ベンガルパンジャブなどだ。インドは広い国だが中国などに比べると面積はずっと小さい。にもかかわらず多くの言語が共存する。なぜこうなのかはインド人に訊いても確たる答えは返ってこない。(答えを聞き取ることも難しい(笑)。)

言語というのは面白い分野だ。世界にはいくつの言語が使われているのか? これに対する答えをネット上で探すと、とても優れた要約に行き着く。それは米国言語学会のホームページだ。タイトルは文字通り"How many languages are there in the world?"。

これを読むと、一つの言語の単位というのは生物の種という単位とやや似ていることがわかる。個々の言語は語族(family)に属すると述べられる。そしてこれらの語族は遺伝的(系統的)に(genetically)関係があるという。これは生物を分類する時の考え方にそっくりだ。確かに言語も生物も、放っておくと徐々に違ったものになる性質がある。さらにこれらが独立したものとして固定されるためには地理的隔離が必要だ。ただし言語の場合は自然地理的に隔離されなくとも社会的に隔離されれば独立したものが成立しうる。

使用されている言語が年々減少していること、および年々学者が新しい言語を発見していることも、生物種とよく似ている。さらに失われた言語は二度と復活しない。なぜならこうした言語は文字として記録されていないからだ。言語と生物種は復活しないことにおいても似ている。但し、進化も絶滅もそのスピードは言語の方がずっと速い。

 

比較的狭い地域に多数の言語が存在している例としてパプア・ニューギニアが挙げられている。計390万人の人々が832の言語を話している。単純計算すると一つの言語が平均4,500人に使われていることになる。これは僅か40−50家族だ。このことを認識するならば、世界にはさらに未知の言語が多数存在していると考えてもおかしくはない。

この言語学会のページによると、世界の言語の数は6,909であるという。しかしこのうちの半分はその話者の数が1,000人に満たず、3,000以上の言語は今後100年以内に消滅すると予想されている。

しかし世界中にいくつの言語が存在しているかは実のところは誰にもわからない。

その主な理由は未だに言語学者の知らない言語がどこかで話されているからだが、さらに重要なことは一つの言語の単位が不明確だからだ。これにはおそらく二つの意味がある。一つは地理的に近い場所で話されている複数の言葉を、どのようにして異なる言語として認識できるかということ。これについては上記言語学会のページでも認めている。独立した言語であるとの認定は科学的にではなく、政治的に決められると述べている(注1)。もう一つは言葉自体が常に変化するので捉えどころがないということだ。

この後者の意味するところは、言葉というのは書き言葉として記載されなければ、それが一つの言語として固定されることがないということを意味している(注2)。文字記録されなければ厳密な言語単位として認定されないとしたら、これは相当高い基準である。というのは歴史上文字に記録されたことのある言語の数はごく僅かだからだ。古くから文字が使用されてきたユーラシア大陸ではことばを記録することは盛んに行われてきた。しかしアフリカ、南北米州(の大部分)、オセアニアではこれは最近までほとんどなされてこなかった。

北米だけでも相当な数の言語が存在してきた。コロンブスが到着した時点では300を超える言語があったが、その全てが文字による記録がなされていなかった。(少し南下するとマヤのような文字を持った文明が例外的に存在したが。)こうした記録されない状況は彼らがヨーロッパ人と接触しても基本的に変わることはなかった。唯一の例外はチェロキー族だ。シクウォイア(ᏍᏏᏉᏯ(チェロキー文字による表記))という若者が、白人たちの書く文章を見て、これは便利だと思った。それで英語を模して、独自のアルファベットを作り上げ、文書として書き表す方法を作り上げたのだ。これは独力で人口的な文字体系を作り上げて、それが使用されるようになった世界史上唯一の例とされている。結局300以上のうち、現在残っているのは165言語のみだ。私とって興味深いのはチェロキー語以外の全ての北米言語は文字を導入しなかったことだ。彼らはなぜ文字を使わなかったのだろうか?

こうして絶滅した言語は二度と復活することはない。それらは記録されていないからだ。この点で生物種と似ているが、生物はDNAに設計図が書いてある。DNAさえ残っていれば、その塩基配列をもとに絶滅種を復活させることは可能かもしれない。こうした考えのもとに、幾つかの絶滅種の復活の試みが続けられていることはすでに紹介した

書き言葉を基礎とした高度な文化が発達するためには、やはり経済的に発展した都市に人々が集まることが必要だ。さらに紙の大量生産や印刷術など、関連する物質文明が確立していることも必要なのだろう。さらにより高度な文明と接触すると、それに滅ぼされるか吸収されてしまう。

ヘブライ語イスラエル公用語だ。この言語は長い間使用されなかったが復活することができた。これは書物から言語そのもの研究が継続して行われてきたからだ。そう考えると文字記録されていない言語の再生はほとんど不可能であろう。

この言語学会のページは言語の分類の諸問題を要領よくまとめてあり、目からウロコの気分を何度も味わえる。興味のある方には勧めたい。

 

最後に付け加えておくが、言語も生物種もグローバルな人の移動と経済的一体化がその絶滅の最大の原因である。だからこれらの絶滅を防ぐ手立ては基本的には存在しない。

 

(注1)相互理解能を一つの基準にしようという話はある。言語Aの話者と言語Bの話者がお互いに自分の言葉で話し、それを相手が理解できれば同じ言語とするのだ。これも相互ではなく一方通行の関係であることが多く、なかなかクリアカットではない。

(注2)日本語の文字表現の変遷もたいへん面白い領域だが、日本語はたいへん古くから記録され、文化を育んできた。しかし日本語の変化(進化?)の速度は速い。以前ラジオでモーツァルトの”魔笛”がかかっていたときのことだ。魔笛モーツァルトのそれまでのイタリア語のオペラとは違い、アリアの間をドイツ語のセリフで繋いでいる。だから演劇に近い性格がある。たまたまそこにドイツ人がいたので、”お前このドイツ語のところで何を言っているかわかるか?”と聞いたところ、ほぼ完全に理解できると言っていた。それで私はドイツ語というのは200年前からそれほど変化していない言語なのだと理解した。日本語だとこうはいかない。200年前(江戸時代)の歌舞伎をいきなりそのまま見て(聴いて)ほぼ完全に理解することはふつうありえない。