メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

がんを巡るエピジェネティクス

先週私のいる病院で開催されたシンポジウムのテーマがEpigeneticsであった。

エピジェネティクス生命科学の中心にある

エピジェネティクスというのはたいへん大きな領域だ。そもそもDNAレベルのマーキング、ヒストンレベルのマーキング、それに非コードRNAによる制御がある。さらにヒストンのマークには多種類のものがあるので、当然遺伝学(Genetics)のカバーする領域の何倍もの課題がある。

エピジェネティクスとは何かというと多くの定義が可能だと思う。しかしこれを研究者が目指している方向として理解すれば良いと思う。すなわち同じDNA配列を持った多細胞生物が発生・分化を遂げる際に、その段階により異なる遺伝子のセットが発現するが、その発現パターンが生じる仕組みを明らかにしようとする。これがエピジェネティクスということになる。その具体的な仕組みとしてヒストンやDNAの修飾が知られているわけだ。現在は第二次ゲノム時代だ。その意味するところは次のとおりだ。これまでは研究者が興味を持っている個々の遺伝子座についてヒストン修飾(およびその他)をone-by-oneで(ChIP)調べていたのが、現在はゲノム全部について(ChIP-seq)修飾の様子を知ることができるようになったのだ。

エピジェネティクス的アプローチはおよそ細胞が性質を変える際のメカニズムを追求するあらゆる分野で用いられている。これらの中には発生・分化の基礎研究から、再生医療、さらにはがんを始めとする疾患の病理発生の機構も含まれる。以前紹介したヒトとチンパンジーの進化を追求しようとしたような研究でもこの視点は不可欠であった。今やエピジェネティクス生命科学の中心にあるといえる。

今回のシンポジストは8名であったが、7名がヒストンの修飾を話題にしていた。残りの一人は以前この場で話題にしたことのあるボストンのRichard Youngで、chromosome neighborhoodを概説していた(内容的にはそれほど新しいものではなかったが)。どの演者も聴衆の興味に合わせてがん、およびがん治療の話を中心に据えていた。

ヒストンH3K27のメチル化を巡って

さて今回の話題の中心は相変わらずヒストンH3K27のメチル化(H3K27me、転写抑制マーカー)を引き起こすEZH2であった。H3K27のメチル化は遺伝子が発現していない(silenced)状態のクロマチンのマーカーである。EZH2を含むコア複合体はPRC2と呼ばれれ、いわゆるポリコーム群タンパクの一つだ。PRC2の構成タンパクはSUZ12、EED、RbAb46、それにEZH2である。実際にヒストンの27番リジン(K27)をメチル化する酵素の活性を担っているのはEZH2だ。

上に述べたようにH3K27meは転写が抑制されている”領域”のマーカーだ。重要なことはこのマーキングは”巣状”に起こり、そのヘテロクロマチン状の”領域”では遺伝子が発現できくなる。Danny Reinberg (NYU)はこの”巣状”におこるヒストン修飾のメカニズムを構造生物学的に解明した(その重要な部分は既に2,009年に公表されている)。それによるとPRC2複合体のEEDが既に存在するH3K27meに結合し、この結合がPRC2複合体の形をアロステリックに変える。この変形がEZH2が隣のヌクレオソーム上に存在する未修飾H3K27への接近を許す。こうしてメチル化されたH3K27の範囲が広がってゆく。このモデルはなるほどと思わせるが、”初発”のH3K27のメチル化がどのようにして起こるかについては明確な説明がされていない。

演者は膠芽腫(glioblastoma)ではヒストンH3の変異(H3K27M、リジンのメチオニンへの置換)が高頻度に見られることを紹介した。このH3K27Mの発がんにおける意義についてはもう一人の演者Kristian Helin (University of Copenhagen)も触れている。H3K27Mは特定の小児脳腫瘍に高頻度に見られ、このメチオニン残基がEZH2の活性中心に嵌ることでEZH2を阻害する。これによりゲノムワイドのH3K27meレベルの低下が引き起こされて発がんを促すらしい。

ここで書いたのはEZH2が阻害されることががん化につながるとするストーリーだ。しかし世の大勢はEZH2を阻害してやることでがんの増殖を叩こうとしている。がんの種類で同じ遺伝子の動きが逆になるわけだ。だからがんの理解は難しいのだが、後者の場合はがんに特異的ながん抑制遺伝子の発現がEZH2の過剰発現によって抑えられている(ゲノム変異を伴わないがん抑制遺伝子の失活)。異なるがんでのEZH2の挙動についてはHelin自身の簡潔な総説があるので便利だ(注1)。

エピジェネティクス機構を標的とした抗がん剤の試み

この流れで既に多くのEZH2阻害剤が臨床試験(少なくとも第2相)に入っている。これについては最新情報を集めた立派な総説が出されている。重要ながん抑制遺伝子にINK4a遺伝子座がある。ここにはp16とp14ARFのタンパクがコードされているが、これらの発現抑制が多くの臨床がんで知られている。大事なことは、この発現抑制にポリコーム群が関与していることだ。HelinはPRC2によるp16の発現抑制を解除することでがん細胞の増殖を止めることを企図してEZH2阻害剤の取得した(化学構造に不案内なので詳述できないが)。標的としたがんはDIPG(Diffuse Intrinsic Pontine Glioma)と呼ばれる悪性度の高い小児の脳腫瘍だ。その結果、細胞株によって良好な効果を示すものと、全く効果がないものとが存在した。後者については阻害剤を与える前からp16タンパクの発現が認められ、最初から細胞がp16による増殖阻害から逃れていることが判明した。したがって、この阻害剤の適用には事前のp16タンパクのチェックが不可欠であることが示された。詳述しないが、他の複数の演者もPRC2そのもの、または周辺のタンパクに対する阻害剤を抗がん剤として用いるべく、研究を進めている。

(次回に続く)

 

(注1)要するにEZH2(およびPRC2)はがん遺伝子の顔と、がん抑制遺伝子の顔の両方を持っているということだ。どちらの顔が出るかはがんの種類による。

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