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メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

健常ヒト胎児のゲノムエディティング

ノーベル賞のお膝元のスウェーデンカロリンスカ研究所発のニュースが二つ。両方とも良くない方のニュースに分類されるかとも思うが(?)、それぞれの”予後”は相当異なる。

最初のニュースはノーベル医学生理学賞の選考委員会のあるカロリンスカ研究所(KI)のスキャンダル。ここでは詳しく紹介することはしないが、2,010年から所属しているイタリア人のスター外科医Paolo Macchiariniが杜撰な実験的気菅移植手術によって、多くの患者を死に至らしめたこと、および当局がこの一連の不祥事の事後処理を誤ったことで、KIの名声を失墜させたという事件だ。結局、この医師の契約を打ち切り、かつ研究所トップの二人も辞任することで決着した様子だ。この医師は私生活でもスキャンダラスな話題を提供していて、とてもまともな人物とは思えない。こうした人物の契約を二度も更新した上層部もまともに機能しているとは思えない。紹介記事では背景としてスウェーデン国内におけるKIの地位の低下があると述べている。こうした状況は、最近日本の代表的研究機関で起こった事件と共通の構図を連想させる。ともあれ事件は表面的には終息に向かうであろう。少なくともこのインチキ医師のせいで命を落とす患者はいなくなる。

もう一つは、タイトルの通り”健常ヒト胎児のゲノムエディティング”でこちらが本題だ(NPRの記事)。同じカロリンスカ研究所の発生生物学者Fredrik Lannerが計画しているものだ。こちらの方は影響が甚大である(可能性が大いにある)。

ヒト胎児へのゲノムエディティングの問題については昨年来相当な議論がなされてきている。(昨年12月のワシントンDCサミットの記事を参照されたい。) こうした研究に取り組もうとしている医師、研究者の多くは遺伝的疾患をエディティングで”直した”上で、出生まで導こうとしているのだ。一方、同じエディティング技術が他の目的、すなわち”より好ましい形質を与えられた”人間(designer baby)を得ようとする場合にも使用可能である。人々の危惧は、こうした目的のエディティングの社会に対する”負の影響”である。当然、倫理的、宗教的観点からの反対もある。

Lannerの仕事の重要性(問題点)は、かれの仕事が”正常ヒト胚”のゲノムを書き換えようとすることで、これは安全性、倫理性の観点からこれまでにタブーとされていたことである。倫理性についてもう一度要約すると、第一はヒトがヒトを操作することの妥当性だ。胚といえどもそれが正常であるならば、正しく子宮内にある場合は当然ヒトの赤ん坊にあるポテンシャルがある。そうした生きる可能性のあるヒトの”若い個体”を実験に使ってもよいかという問いがある。もう一つは、上に述べたdesigner babyの問題。さにはもう少し漠然とした宗教的な反発もあると思う。

昨年5月に、中国の研究者が世界で最初のヒト胚のゲノムエディティング実験を試みた。そこではこの赤ん坊になるポテンシャルもった胚を使用することを避けるために、意図的にtripronucleus(前核を3つ持つもの)の受精卵を用いている。このような著しく異常なゲノム構成をもった胚は子宮内に戻しても、正常に発生が進行することはあり得ない。しかし、今回のLannerの研究では全く正常な胚を実験に使用している(注1)。

NPRは当のLanner自身に取材を試みている。LannerはPhDだが、彼の意図はヒトの初期(2日齢)の胚発生の機構を解明するために、CRISPR/Cas9法を用いて様々な遺伝子の欠落した胚を作ることで個々の遺伝子の役割を明らかにしようというのだ。実際の胚は体外受精で得られたものを用いる。上のような倫理的観点からの批判をかわすために、エディティングされた胚は最大7日間しか観察(培養)しないとする。これはヒト胚の発生過程からいうと、だいたい着床直後までの期間ということになる。この部分を見る限りにおいては、このグループの目標はむしろヒト初期胚の発生過程を解明しようとする基礎研究というふうに読み取れる。事実Lannerの論文リストを見ると、基礎的研究で埋められている。

正常ヒト胚のエディティングはこれまで誰も試みていなかっただけに、たとえ目的が基礎的研究であってもそれだけで”野心的”である。権威ある研究機関での話なので、所内の審査にも当然パスしているはずである。昨年一気に盛り上がってきたヒト胚操作に関する議論の末、現在はこうした実験を凍結する(モラトリアム)とするコンセンサスが得られているが、このLannerらの動きはこれに反するもである。KIもこうした研究の実施をおそらく承認していると考えられるので、KI自体もこのコンセンサスを無視していると推測される(注2)。

もう一つの問題、それは技術的問題だ。現在のCRISPR/Cas9によるゲノムエディティング技術は、ゲノム上の標的部位を100%改変するものではない。この意味するとこは、標的部位が常に100%改変されるということでもないし、標的以外の部位も傷つくことがある(off-target effect)ということだ。実験室(および産業動植物)では多数のクローンのゲノムを調べた上で、望ましいゲノム改変がなされた個体を選択して次の目的(実験や生産)に用い、大部分は捨てているのだ。その意味で、ゲノムエディティングをヒト治療(あるいはdesigner baby)に用いるにはさらに長期間を要することは間違いない。

このNPRの記事はヒト胚のゲノムエディティングにおける重要な問題点をカバーしていて、英文もきわめて平易なので一読することをお勧めしたい。

 

(注1)実際には個々の受精卵が本当に”正常”であるかどうかは一見しただけではわからない。それはその受精卵の全ゲノムの配列を決定すれば、ある程度判定することが可能だが、初期胚ではそれに足るDNAを採取することはできない。のみならず、そのために細胞を採取すれば、この操作自体が胎児の異常を引き起こすことが予想される。

(注2)こうしたコンセンサスは科学者のコミュニティーの間での紳士的合意であって拘束力はない。各国の研究者に対する拘束力はその国の法律による。既に述べているが、米国ではヒト胚のゲノムエディティングの研究にはNIHを始めとする政府機関からの研究助成金は出されない。しかし私的資金を用いた研究は野放しだ。既に秘密裏にdesigner babyの研究が開始されている可能性は皆無ではない。しかし現時点でのエディティング技術の未熟さを考えると今のところは実施している医師・研究者はいないだろう。

こうした状況から考えると、designer babyを作り出すような操作は法律で禁止し、しかし胚での遺伝病の治療には道を開いておくような国際的取り決めを進めてゆくのが、現実的な道ではないかと思う。