メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

北米のオオカミは1種のみ  

北米のオオカミがただ一種だったという話だ。それが何だと言われるだろう。しかしこの話題は結構奥が深い。

まずは2,014年9月のサイエンスに出たアメリカアカオオカミ(red wolf, Canis rufus以下、ここではアカオオカミとする)の保護の話から。北米のオオカミは、gray wolf(Canis lupus)と呼ばれるオオカミ、red wolf(Canis rufus )と呼ばれるアメリカアカオオカミ(以下、アカオオカミと称する)、それにEastern wolf(Cabis lycaon)(和名が見つからないので一応“東部オオカミ”と呼んでおく)の3種とされていた。オオカミは西海岸からロッキー山脈の広い範囲に分布している。アカオオカミは米国東南部に、またEastern wolfは5大湖沿岸からカナダ南部のさほど広くない地域にいる。

このサイエンスの記事によると、現在アカオオカミが生息しているのは東海岸のノース・カロライナ州のみだ。だがここにいるアカオオカミのすべてが一度捕獲された個体から増えたものを再野生化させたものだ。この再野生化は政府の保護政策の一貫として行われている。こうした活動はthe Endangered Species Act(ESA、1,973) という連邦法によって規定され、魚類野生生物局(Fish and Wildlife Service, FWS)の管轄となっている。ところで分類学者たちの間では、アカオオカミは実際には独立した種ではなく、オオカミとコヨーテとの合いの子であると言われていた。ESAは純粋な種でなければ保護政策の対象と規定していないので、今後の保護策をどうするかという問題が出現していた。

一応これまでの保護策を記載しておく。ノースカロライナのアカオオカミの生息地は北のコヨーテの分布地域と接している。したがって、そこにいるアカオオカミは放っておくと北から侵入してくるコヨーテと交雑してしまう。そうなると徐々にアカオオカミの系統はコヨーテによって薄められてしまう。これを防ぐために、両者の棲息域の境界付近にいるコヨーテのオスを精管結紮、または切除によって不妊にしてやる。この状態でもオスは交尾するし、そのテリトリーを守るので、北から繁殖力のあるオスのコヨーテの侵入は抑えられる。だからこの不妊オスの地域は両者のテリトリーのバリアーとして機能するわけだ。

ところでアカオオカミの個体数減少の大きな原因はハンターである。(野生動物の最大の敵は常にヒトであることは否定できない事実。)しかし狩猟することは米国人にとっては重要な権利である。さらにノース・カロライナは人口希薄な州ではないので、アカオオカミが増えると人家や農業・畜産への被害が増加する。こうした理由でアカオオカミの保護について、社会の構成員のすべての合意が得られていたわけではない。野生動物保護におけるこうした状況は、より人口希薄な地域であるイエローストーン国立公園へのオオカミの再野生化の際にも見られた。

オオカミの保護における生物学的問題は、上に述べたような野生動物同士の交配だ。アカオオカミとコヨーテは形態、行動様式ともかなりの違いが見られるが、交配したF1同士は子を作れる。だからこれらは古典的な種の定義では別種とはいえない。上述のように、分類学者はこれらを別種にすることに疑義を呈してきた。

つい最近ゲノム配列からこの問題を検討した論文が出され、一応の解答が得られた(注)。この研究では、12頭のオオカミ、6頭の東部オオカミ、3頭のアカオオカミ、3頭のコヨーテ、さらにイヌとアジアのオオカミのゲノム配列の比較を行った。その結果、東部オオカミとアカオオカミが各々独立した種であるとする証拠に乏しいこと、またこの両者のゲノムにはかなりの割合でコヨーテのゲノム配列が存在することが判明した。東部オオカミのゲノムの50%に、アカオオカミの75%にコヨーテのゲノム配列が含まれていた。さらにオオカミとコヨーテの関係も考えられていたよりもずっと近縁であることもわかった。この両者が分岐したのはわずか5万年前と算定された。この分岐はアジアのオオカミが北米に移動した後に起こり、主に小さめの動物を捕食するコヨーテと、ムースなどの比較的大型の哺乳類を捕食するオオカミとに棲み分けがなされたという。確かに5万年前というのは別種となるには新しすぎる。

結論として、アカオオカミの自然ー人間史は以下のようになる。過去2世紀の間に米国東部のオオカミが人によって駆逐された。この生態的空白を埋めるように大陸中央部(プレーリー)に棲息していたコヨーテの東進がおこり、 オオカミと交雑した。その結果アカオオカミが現れたというわけだ。コヨーテの方が数的に勝っていたので75%のゲノム含量になったわけだ。だから大雑把に言うとアカオオカミは人の活動によって出現したものだ。しかし皮肉にもその事情を知らない20世紀の現代人がこれを純粋種として保護策を講じてきたわけだ。

保護上の大きな問題は、こうした合いの子の動物種に対する規定がESAには記載が全くないことだ。ここでも現実(ないしは科学)に法規が追いつていない状況がある。しかし研究者の一部には、仮にアカオオカミが純粋種でなくとも保護する価値ありとする声がある。その理由は、アカオオカミのゲノムには絶滅危惧種であるオオカミの遺伝子が含まれていて、アカオオカミの保護はすなわちこれらの遺伝子プールを保存することになるからだ。野生動物の保護の目的がその”種そのもの”に加え、”遺伝子プール”を対象とするならば、この考えは納得できる。

野生種の保護策を考えたときにさらに大きな問題は、他の多くの動物種にもこのアカオオカミのように、類縁種との間で繁殖可能なケースがあることだ。つまり既存の分類体系はそれほど厳格に独立した種を規定していないということだ。これはすなわちさらに広範な動物種について、数多くの個体についてゲノム解析が必要とされるということを示している。"エコロジーは分類だ”というのは腸内細菌学のパイオニアである光岡知足の言葉だ。私はこの言葉を30年ほど前に本人から聞いた。しかし原核生物である細菌と、有性生殖する高等動物とではその重みが違う。後者では交雑可能な組み合わせから、異なる遺伝子組成を持った集団が生じうるのだ。したがって、生態系の構成員そのものが置き換わってしまうのだ。

最後になるが、こうした野生動物の保護活動がなぜ必要かについて追加しておくが、これこそが多額の公的予算を使うことへの根拠である。絶滅危惧種に指定されている動物は、しばしば比較的大型の肉食獣である。こうした大型動物は、その地域の生態系を健全に保つために重要な役割を果たしていることが多い。そのためこうした上位捕食者の再野生化が各地で試みられているのだ。本ブログでも、マンモスの再生の試み、オーロックスの再生、それにブラジルでの肉食獣の再野生化プロジェクトについて紹介している。ちなみにマンモスの本の著者、Beth Shapiroは今回出されたオオカミのゲノム解析論文の共著者の一人である。この人はマンモス再生よりもオオカミ保護においてより実績がある。

 

(注)このゲノム解析に関する優れた解説としてニューヨークタイムス(NYT)の記事をあげたい(Carl Zimmerによる)。いつもながら、この新聞の科学記事はバランスが良く感心してしまう。

(追記、8/23/16)最近中国でのジャイアントパンダの再野生化の試みの記事が出ている。再野生化の試みの多くが地域の生態系を”回復する”ために行われているが、このパンダのケースは純粋に稀少種の個体数の回復を目的としている。パンダほどのシンボル性があれば、そのための資源の投入には十分な理由があると思われる。