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メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

がん治療の手段としてのDNA修復阻害

がんの化学療法は2,000年頃を境として選択的阻害剤の時代に入った。この契機となったのは慢性骨髄性白血病CML)におけるBCR-ABLタンパクの阻害剤イマティニブ(グリーベック)の成功であった。その後の動きは各々のがんで特異的に活性化されているがん遺伝子を特定して、それに対する阻害剤を探索するというフローが一般的になった。こうした選択的阻害剤の利点は副作用がひじょうに弱く、がん細胞の増殖を抑えることができることだ。

抗がん剤として比較的早期に導入された一群の薬剤にDNA合成を標的にしたものがある。 がん細胞の増殖が旺盛であることからDNA合成を阻害する薬剤ががんを選択的に攻撃すると考えられたのだ。この方式の問題点は、体内にはがん細胞以外にも細胞増殖の旺盛な組織があること。そのため骨髄抑制や脱毛のような副作用が見られる。こうしたこともあって各がんで選択的抗がん剤を探索する方向で進んでいる。これはきわめて各論的なアプローチである。これを可能にしたのは次世代シークエンシング技術とビッグデータの処理である。これにより各がんでのゲノム変化を網羅的にすくい取り、特異的なドライバー変異を短期間で特定できるようになった。特にがん特異的キナーゼの活性化は重要視される。その理由はタンパクキナーゼの阻害剤の取得は比較的容易だからだ。

Science最新号に載っているStephen JacksonとThomas Helledayの小論”Drugging DNA repair: Inhibiting DNA repair can have a positive outcome on therapeutic interventions”はがん治療におけるDNA修復とDNA傷害反応(DDR)を標的とすることを、やや新しい視点から論じたものだ。著者は二人ともこの分野における大家でともに英国で活躍している。

既にATM、ATR、CHK1、WEE1の阻害剤は臨床試験に入っている。これらはDNA傷害チェックポイントを構成する分子である。いずれもキナーゼだ。この理論的根拠はがん細胞ではDNA複製の亢進していて(複製ストレス)それに伴って細胞のチェックポイント機構への依存性が増している事実だ。

もう一つはがん特異的に失活しているがん抑制遺伝子の働きに着眼するものだ。この代表例としてBRCA1/2が挙げられる。BRCA1/2は乳がんで失活しているが、S期のDNA複製時の相同組み換えによるDNA修復に関与している。こうした乳がんへのPARP阻害剤の効果に着目したのだ。これについては著者のHelledayが道筋をつけた一人だ。PARPタンパクは様々なDNAの関わるできごとに関与している。例えば一本差DNA切断の修復が完了するために必要である。一本鎖DNAの断裂は細胞内では塩基除去修復の途中で生じる。PARP阻害剤があるとこの一本鎖DNA断裂はそのまま残り、かつPARPタンパクがDNA上に残存する。この構造物はDNA複製時に相同組み替えによって除去されなければならない。ふつう細胞内では高頻度にDNA塩基の化学的修飾がおこり、これを直すためには塩基除去修復が働く。PARPが阻害されればこの修復が完了せず多数の一本鎖断裂ができる。これらはDNA複製時に二本鎖断裂になってしまう。BRCA1/2の失活している細胞ではこの複製フォークにおける二本鎖断裂の処理ができないので細胞死に至る。すなわちBRCA1/2の変異とPARP阻害の組み合わせでは、synthetic lethality (SD、合成致死)が観察されることになる。実際2,005年にHelledayグループがNatureに出した論文の乳がん細胞の生残曲線は、驚くほどsteep(険しい)だ。つまり選択性がきわめて高いのだ。PARP阻害剤はこうしたSDを利用したがん治療薬の先鞭をつけたのだ。Olaparibは2,014年に規制当局(米FDAと欧州EMA)によって認可された

但し、上に述べたPARP阻害剤についても状況は当初考えられていたほど単純ではないこともわかってきた。一つの問題点は、BRCA1/2変異を持ったがんでもPARP阻害剤が効く患者と効かない患者がいることだ。さらに最初は効いていた患者でもやがて耐性となるケースもある。この耐性の出現については2,008年に二つの報告がなされ、そのうちの一つは谷口グループ(Fred Hutchinson Cancer Research Center, Seattle)によるもので、BRCAタンパクの復帰変異が起こっていた。BRCA1/2とPARP阻害の合成致死の発見から僅か3年後であった。なかなかうまくいかないものである。

他にもいくつかの興味深い例が挙げてあるが、ここでは省略する。すでに述べたようにこの小論の著者は二人とも英国人であり、私はこの分野の評価における英米間での温度差があることを指摘しておきたい。最初に述べたように、DNA修復やDDRを標的とするがん治療の開発は米国では実際には峠を越えている。しかし上に挙げたPARP阻害剤のように、対象のがんを厳しく選別すれば副作用が少なく、かつ有効ながん治療をもたらすことが期待される。Keystone symposiumでは隔年でDNA修復とDNA複製の合同ミーティングで開かれるが、そこで受ける印象は英国(および欧州)の研究者はこれまでに蓄積された基礎研究の土台を大事にしている印象を受ける。一方米国の研究者はやや新しい手法を駆使してデータを揃えるような傾向があると思う。これはグラント審査の傾向に大きく影響されている面が大きい。但し、そのことが必ずしも英国の研究者が守旧的で“象牙の塔“に引きこもっていることを示しているのではない。それが証拠にJacksonは自らの研究の臨床応用への道筋をつけるためにこれまでに複数のベンチャー企業を立ち上げている。

やっぱり思考の射程距離が長いのだ。