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メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

“p53: The gene that cracked the cancer code” by Sue Armstrong, 2,015(読書ノート)[1]

 研究者にとって“祝福された遺伝子”というのがある。

常にその分野の中心にあって 研究者にとって“実入りの良い”遺伝子である.f:id:akirainoue52:20150912091352j:plain

がん研究者にとってp53ほど祝福された遺伝子はない。PubMedで調べると現在までに約8万報の論文が出されている。これほどの祝福された遺伝子がかつてあっただろうか?

 p53はがん抑制遺伝子である。この遺伝子が祝福されている理由はこの遺伝子の異常が大部分のヒトのがんの発生に関係しているからである。

 

 

本書はこのp53遺伝子がいかにして発見されて、さらにその異常がいかに深く発がんに関わっているか、その研究史をドキュメントしたものである。 

最初に“p53は祝福された遺伝子である”と述べたが、その発見の当初から祝福されていたわけではない。

p53が発見されたのは、がん研究がいわゆる“ウイルス発がん”の全盛期からヒト(あるいはマウス)の内在性のがん遺伝子(実際には前がん遺伝子proto-oncogene)の探索に焦点を移した頃であった。SV40ウイルスのタンパクと結合する分子量53 kdのタンパクとして同定されたのがp53である。p53は当初がん遺伝子と考えられていた。その理由は、がん細胞から単離(クローン化)したp53遺伝子を正常細胞(とここでは言っておくが)に導入すると、細胞ががん化したからである。これは確かにがん遺伝子の定義に当てはまる。そのため当時最先端のがん研究者は既にある長さとなっていたがん遺伝子のリストに新たなものが一つ加わるだけと考えて、人々はそれ以上の興味をなくしたのであった。

 

ところが一部の研究者たちは自らクローニングしたp53のcDNAが正常細胞をがん化しないという結果を得た。さらに同じcDNAががん細胞の増殖を止めるという全く逆の結果を得た。そこでp53ががん遺伝子ではなく、がん抑制遺伝子ではないかという考えが浮上したのだ。やがて明らかになったのはがん細胞に存在する変異を持ったp53タンパクはがん化を促し、逆に正常細胞のもつ野生型p53はがん化を抑えるのだ。このため初期の段階ではp53の研究者は論文投稿でも、また予算獲得においてもハッピーではなかったようだ。

 こうした曖昧模糊とした時期から、ヒトのがんでのp53遺伝子の変異欠失の証明や、ノックアウトマウスによるがん抑制遺伝子であることの決定的な証拠を得るまでになる。これはだいたい1,990年代のことである。本書はこの間の経過を要領よくドキュメントしている。必要に応じて研究に携わってきた研究者にインタビューしている。

本書はp53の研究史の概略を知るにはたいへんよくできた書物である。ただ、そのときその実験でどのような研究手法を用いたのか、詳細は記載されていない。本書に記載されている科学的営為の分量は相当なものである。したがって研究方法の詳細を書くだけの紙数が足りなかったであろうことは十分理解できる。実際こうした一般向けの科学的ドキュメントでは、できるだけ専門的なディテールを書くだけの余裕はないと思われる。一般にこうした書物の分量は概ね250-300ページに収まるように書かれるのが一般的である。

 

余談ながら、英語で書かれた科学ドキュメントには優れたものが多い。やはり英語話者の人口が多いだけに、こうした本を書くだけの能力をもった作家の絶対数が多いようである。そしてその多くが女性である。日本語読者の相対的インテリジェンスは高いし、女性作家も数はそうとう多いと思う。ただし、日本では作家はフィクションに偏っているようである。これは平安時代以来からの伝統だろうか。

 

筆者の個人的な感想としては、最も迫力があったのはタバコの肺がんへの影響の部分である。タバコと肺がんの因果関係を確実にするために、がん疫学者は肺がんに特徴的なp53の変異パターンを明らかにした。この過程で主に米国立がん研究所(NIH)の研究者達と、タバコ産業の援助を受けている研究者達との暗闘を描いた章は最も迫力があった。こうしたストーリーは科学ジャーナリストの得意としたところであろう。

(続く)