メンフィスにて

主に生命科学と社会について考える

象牙取引停止への中国政府の決意

中国政府は2,017年末までに国内での象牙の取引の中止を達成することを約束した。当然この決定は自然保護主義者たちに好意的に受け入れられている。年々相当な勢いでアフリカゾウが密漁されているが(年間20,000頭という)、この対策はアフリカゾウ保護における"game changer"であると受け取られている。以下このワシントンポスト紙(WP)の記事を要約し、若干私見を追加する。

中国政府の発表によると、”本年3月から象牙取引の制限を始めて、2,017年12月31日までにこれを完全に禁止する”というものだ。

これまで中国は象牙細工は中国の持つ文化であり、かつ商取引や役所との交渉に欠かせない贈り物として機能してきたと主張していた。したがってこの決定は中国自身にとっても画期的な決定と言える。記事によると、この決定に影響を与えたのは国際的な圧力だけではなく、一般の中国市民の意識の変化にも促されたという。 例えば元NBAスターのヤオ・ミン(姚明)は"stop the buying (of ivory)"キャンペーンを展開している。こうした著名人の活動により、一般の中国人の間に”象牙のためにアフリカゾウが絶滅に近づいている”という認識が広まってきた。もう一つの要素はこの象牙取引のためにアフリアでの中国の国家イメージが低下していることも挙げられる。

中国には象牙細工で生計を立てている大勢の人々がいるが、政府はこうした人達が商業的象牙細工が禁止された後も生活できるような方策も検討している。その一つの例が、各地の博物館での所蔵品の維持修理に携わる仕事に従事させることをあげている。

 

これまでアフリカゾウの総個体数は47-69万頭と推定されてきた、一般に現存するゾウの仲間はアジアゾウアフリカゾウの2種と考えられてきた。しかしアフリカゾウには実際は独立した2種があって、各々森林アフリカゾウLoxodonta africana)とサバンナアフリカゾウL. cyclotis)からなっている、ととらえられるようになってきた。このうち大きいのはサバンナアフリカゾウである。実際この両者は体格のみならず、かなりいろんな点で異なっている。現在アフリカゾウの個体数の調査は空から視認するやり方で行われている(great elephant census)。このセンサスでは2,014年に実際に352,271頭を目視により確認している。しかしこの方法では森林に棲むL. cyclotisの頭数を確認することは困難だ。L. cyclotisのほうの個体数把握とその保護が急がれる(注1)。

野生種保護の取り組みに大きな影響を与えているのがゲノム情報だ。最近の例ではこれまで1種とされてきたキリンの仲間が実際は4種であることが判明した。こうした動物種の再定義の結果、特定の種の総個体数が危機レベル程度に少なくなるケースが続出する可能性がある。要するにこれまでは生物学的実態とカテゴリーが合っていなかったわけだ。

アフリカゾウは35年前には約120万頭が生息していたとされる。このままでゆけば、今後10年間に森林アフリカゾウは絶滅すると予想されている。したがって今回のニュースはもちろんグッドニュースなのだが、こうした発信は中国共産党習近平)の政府の対外的なイネージ戦略の一貫なのであろう。特に昨年は中国の外交のかなりの部分が裏目に出たという事情が影響していると思われる。独裁国家はひとたび何事かを決定するとあとは素早い。習近平は今回の件では一部では賞賛の対象となっている。

最近中国政府の国際的な諸問題への対処で積極的かつポジティブな姿勢が目立っている。その一つの例が薬剤耐性菌への取り組みだ。この件の詳細と問題点については既に指摘しておいた。

このような中国の対策が成果を上げるかどうかについては未知数だ。今後を見守って行きたい。

これと関連するが、ナショナルジオグラフィック2,016年10月号はサイの角の取引を特集している。角が切り落とされたサイの遺骸の写真はかなりショッキングだ。記事の中でどの国が角売買に関与しているかを図示している。サイの角は漢方で使われるので、当然こちらも中国が最大の消費国である。ゾウの場合とは違い、中国政府はこちらのほうの対策はまだ打ち出していないようだ。

 

(注1)森林アフリカゾウは繁殖可能年齢への到達(23ヶ月 vs 12ヶ月)と妊娠間隔(5−6年 vs 3−4年)がいずれもサバンナアフリカゾウに比べ長期間だ。このため集団の二倍化期間が20年 vs 60年となり、一度総個体数が減るとその回復は難しい。余談ながら、こうした繁殖における性質がかなり違うにも関わらず同種と考えられてきたのも変だ。

f:id:akirainoue52:20170119063433j:plain(こちらは本文とは関係のないアジアゾウ。セント・ルイス動物園)

 

追記 2/20/17

今日のサイエンス誌のニュースガボンにおける森林アフリカゾウLoxodonta cyclotis)の個体数が予想外に少ないことが明らかとなったことが報じられている。ガボンはゾウの保護策を講じてきたにも関わらず、過去10年間に約60%減少している。象牙の需要のある限りはゾウの密猟は終わらないと結論している。

2,017年はゲノムシークエンシングが爆発する?

昨年末、サイエンス誌に昨年(2,016年)発表された最大の科学的発見が掲載された。それは”重力波の観測”だったが、別記事でそれに次ぐ9つの業績も出された。この中には京大グループによる”受精能を持ったマウス卵子のin vitroでの作成”などが含まれている。この中で私は"Genome sequencing in the hand and bush"に注目している。

以下この件について、(1) 現状、(2) 原理、(3) 特徴、利点、(4) 応用範囲、(5) 医学生物学史上の意義、(6) その他、を簡潔に述べたい。

ゲノムシークエンシングに関しては、すでにその波及効果について言及してきたが、今回の技術はこれをさらに拡大させる威力があると思う。概略を述べると、新しい原理に基づくDNA配列決定技術がいよいよ市場に出てくるらしい。これは英Oxford Nanopore Technologies社が開発したものだ。名前のとおり、ナノポアシークエンシングと呼ばれる技術を商品化したのだ。既にベータテストも終了し、いよいよ市販されるということだ。実際ウェブサイトに行ってみると、価格も表示されている。

その原理をきわめて大雑把に説明すると、絶縁膜上に作られた微小な穴、これはだいたい直径1 nm程度のものだが、この膜を挟んでDNA分子を電気泳動してやる。そこをDNA分子が通過する際に各ヌクレオチド(塩基)が電流を阻害する。この阻害の程度は各ヌクレオチドによって異なるので、それを一個ごとに順番に検出することによって塩基配列がわかるというものだ。上記Oxford Nanopreのサイトに原理を解説した動画がある。この会社は正確にナノポアを作りかつ電流を検出する技術を確立したのだ。

これまでに普及してきたシークエンサーのほとんど全てがSanger法またはそれの応用であった(注1)。ナノポア法ではこれと全く異なる原理に基づいている。この方式の利点のひとつは断片化していない長い核酸分子が読めることだ。そのためコンピューター上での複雑なプロセスを省略できる。つまり大きなコンピューターが不要である。Sanger法のような酵素反応ではないのでRNAも読める。さらにOxford Nanopreはこれをポータブル化してTVのリモコン程度のサイズにしている。値段も安い。ポータブルなのでフィールドワークの現場でも使える。

この方法の実用性については、すでに多数の論文がプレプリントサーバー"bioRxiv"上に掲載されていて、十分使用に耐えうることが実証されている。過去10年間にイルミナなどのnext-generation sequencingは医学生物学のあらゆる領域に応用され、かつ一部の領域を爆発的に進歩(ないし進化)させつつある(注2)。しかしこうした研究の展開も、シークエンサーが高価であること、大型のコンピューターが必要であること、さらには配列を解析するための要員が必要であることから、限られた研究機関でしか実施されてこなかった。ナノポア技術が普及することにより、少数のトップ(金持ち)研究機関に独占されてきたゲノム解析がより広く開放される。これで第三次ゲノム時代が到来すると私は予想している。

 

我々はこれまでに、医学生物学研究の歴史上”素人化”と呼ぶべき現象が何度も出現してくるのを見てきた。素人を巻き込み、その裾野を広げる。その結果としてより分厚い研究成果がもたらされる。典型的にはPCRの出現によって、これまで大腸菌を使わなけれできなかった分子生物学的研究が医師などの”素人”に解放されたことが挙げられる。その結果、膨大な量の疾患関連遺伝子のデータが生み出されたのだ。

今回のナノポア技術も、新たな”素人化”をもたらす可能性が大いにある。さらに費用的な面からもメリットが大きいので、研究の発展途上国でもゲノム解析が十分可能になると予想される。ゲノム研究で出遅れた日本の医学分野でもキャッチアップが可能になると思われる(注3)。

最後にこの画期的な技術が英国から出てきたことにも着目したい。ワトソン、クリックの二重螺旋の発見はともかくとして、分子生物学的発見とその研究手法のほとんどすべてが米国から出てきている。この英国発の新技術という事実は大きい。英国の人口は日本の1/2、米国の1/5程度にしかすぎない。にもかかわらず、科学の分野で揺るぎない地位を保っている。最近米国の研究者に与えられた科学分野でのノーベル賞の多くは、実は英国出身者で占められていることは重要である(注4)。最近のシークエンシング技術をとってみても、そのほとんどが米国特にカリフォルニア州から出てきている。組み換え型ネッタイシマカの例など、英国では大学発のベンチャーが開花してきている。英国では金融以外の産業が滅んでしまったという認識が定着しているようだが、21世紀型の産業が起こりつつあるように思う。こうした英国の実力の理由については検証される必要がある。

さらに最後になるが、これで益々ゲノム情報のプライバシー保護が困難になるであろうことも追加しておく。

 

(注1)この事実はいかにSanger法が優れていたかを示すものだ。実際先行するMaxmam-Gilbert法は完全に廃れてしまった。30年間もシークエンシングの王座についていた事実は後に歴史に記載されるであろう。

(注2)医学分野ではがんのゲノム解析、微生物叢の研究、およびあらゆる疾患における遺伝子発現パターンの把握。より基礎的な分野では生物分類の見直しや進化学への貢献。さらには歴史学、考古学への貢献と、次世代シークエンシング技術はあらゆる分野で用いられている。

(注3)比較的最近書いた記事ではドラッグスクリーニングにおける”ド素人化”について論じた。

(注4)このことは実は、米国の教育システムや研究者育成法にある何らかの欠陥を暗示している。しかしこれは簡単に手に負える問題ではない。ゆっくり考えてみたい。本当は英国のシステムを見る必要があるのだが。

テロメア維持の機構:(5)テロメア姉妹染色分体交換(T-SCE)

 (前回から続く)

T−SCEに限らず、テロメアという特異なゲノム領域を追求する手法には研究者の知恵が込められている。テロメア姉妹染色分体交換(telomere sister-crhomatid exchange、T-SCE)について少し考察したい。

生細胞中のゲノム変異を追求する方法

生細胞のゲノム上での変異頻度を求める実験手技は限られている。古典的にはHPRT遺伝子の失活頻度をもって遺伝子変異率を求めるやり方だ。HPRT遺伝子はプリン体のサルベージ経路の代謝酵素で、この遺伝子が失活していてもふつう培養細胞の増殖には影響しない。そこでHPRTのみによって代謝経路に入って細胞を殺す(自殺基質)ヌクレオチド類縁体(例えば6-thioguanine, 6-TG)を利用することができる。6−TGの代謝産物は細胞内で強い毒性を示すので、6−TG存在下で増殖してくるのはHPRT遺伝子が失活した細胞のみである。このことにより全細胞数(コロニー数)のうち6−TGに耐性の細胞数(コロニー数)の割合を求めることにより変異頻度が求められる。さらにここから得られた6−TG耐性細胞クローンのDNAを解析することによりその際生じた突然変異やDNA修復のしかたが解析できる。

現在は第二次ゲノム時代である。さらにこれがナノポアシークエンシングの登場によって今年のうちに第三次ゲノム時代に突入することが予想される。要するに機能があろうがなかろうがゲノム上のDNAの配列を全て読み込んでしまうことで、全ゲノム上の変異頻が求められるようになてきた(注1)。こうした実験の効率が飛躍的に向上しようとしている。こうなると、上に挙げたような”機能喪失”を手段とした変異頻度の算定は不必要になってゆく可能性が高い。

しかしこうした配列変化を読み取ることに抵抗するゲノム領域がある。それは繰り返し配列である。同じ配列、または同じような配列が多数回繰り返している領域では、それらの関与するゲノム変化を読み取ることは困難である。テロメアはこうした”難しい”領域に属する(注2)。

姉妹染色分体交換(SCE(この項は読み飛ばしても良い)

まずはT−SCEの前にSCE

SCEは相同組み換えによるDNAの修復頻度をうかがい知ることができる手法だ。姉妹染色分体(sister chromatids)とは染色体のDNAがS期で複製されたものが、その後の細胞分裂時に凝縮して観察可能になったものを指す(写真下左)。もともとG1期で1コピーだったものがS期では2コピーに複製されるので、これら姉妹染色分体は”過誤がなければ”全く同じものである。

しかしゲノムDNAは常になんらかの”傷”を負い、そのほとんどすべてはDNA修復システムによって正しく直される。この修復装置の中には本シリーズでたびたび登場してくる相同組み換え(homologous recombination、HR)がある。HRは最も信頼性(fidelity)の高い修復機構であり、特に染色分体どうしでのHRは両者の塩基配列が全く同じなのでその痕跡を残さない。このことは研究者にとっては厄介なことであり、HRが起こったことを識別・定量することはほとんど不可能だ。

In vivoでのHRの検出(他の多くの手法と同じく実際には事後検出)を可能にした唯一の方法が姉妹染色分体交換(sister-crhomatid exchange、SCE)だ。この手法自体は早くも1,956年に開発されている(注3)。しかし組み換えの頻度が安定して計測できるようになったのは改良型が出現してからであった。簡単に方法を言うと、BrdU存在下で二回細胞分裂させた後染色体を調整する。これをHoeschst 33258で染色した上で蛍光顕微鏡化で観察する。これによって染色分体が分染される。さらに改良されて現在ではギムザ染色での普通の顕微鏡下でも観察できるようになった(写真下右)。

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これによって染色体標本上で染色分体間でのDNAの組み換えが検出できるようになった。例えばマイトマイシンCなどの処理によりSCEの頻度が上昇する。SCEはきわめて高感度であり、染色体の構造異常が全くみられないような薬剤濃度でもSCEが上昇していることが多くみられる。このため変異原性試験などにも加えられている(注4)。

テロメア姉妹染色分体交換(T-SCE)検出法の確立

テロメアでも姉妹染色分体交換が起こるはずである。ところが分染されたテロメアの交換の検出は極めて困難である。その理由はテロメアが短く、かつ末端に存在するからだ。

この問題を手法的に解決したのはMichael Cornforthのグループで、テロメア配列のG-rich strand [(TTAGGG)n]とC-rich strand [(CCCTAA)n]の各々を特異的に認識する蛍光オリゴプローブを用いることによって実現した(2,001年)(注5)。これはいわゆるCO-FISHの応用で、Chromosome orientation fluorescence in situ hybridizationの略だ。

テロメアのCO-FISHは簡単に言うと、S期で新たにできた新生鎖を選択的に破壊することによりG-rich鎖とC-rich鎖を区別して染色する。これによりテロメアでの染色分体が分洗される。普通(TTAGGG)6と(CCCTAA)6の配列をもつオリゴヌクレオチドを各々赤と緑の蛍光色素でラベルしてやることでこの分染は可能となる

染色体標本で観察できる染色体はM期のものだ。各染色分体は二本鎖DNAからなっているが、その片方の鎖は直近のS期におけるDNA複製で作られたものだ。こうしてできる新生鎖の破壊は細胞をBrdUとBrdCでラベルすることで可能となる。前者はG−rich鎖に、後者はC−rich鎖に取り込まれる。これらのヌクレオチドを取り込んだDNA鎖は長波長紫外線処理の後にエクソヌクレアーゼ処理すると破壊されてしまう。そこで残った鋳型鎖をFISHで検出する(図参照)。各分体のテロメアは片方が緑、他方が赤のシグナルを発する。これらのテロメア分体間での組み換えが起こると、緑の部分と赤の部分が隣接することになる。これは実際は顕微鏡下で黄色のシグナルとして認識される(注5)。

このようなCO-FISHの手法によってALTでのT−SCEの上昇を明らかにしたのはReddelShayの二つのグループだ(2,004年)。ALT細胞ではテロメア断片が別の染色体に”飛ぶ”ことを述べたが、T−SCEの上昇はALTがHRに基づいた現象であることをさらに示すものとなった。

 

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(テロメラーゼ陽性細胞(HeLa細胞)では対角線上パターンにシグナルが出る(白矢印)。ALT細胞(SAOS2細胞)では高頻度で姉妹染色分体の両方のテロメアにシグナルが観察される(黄矢印)。二色プローブのCO-FISHの写真は手元にはない。)

 

続く

 

(注1)このナノポアシークエンシングのインパクトに関しては近々議論することにする。

(注2)他にはセントロメア、およびその周辺、あるいはrDNAがある。

(注3)これはヒトの正常染色体数が確定した直後のことである。

(注4)”変異”(または”突然変異”)とは、DNAが物質として何らかの傷(損傷)を受け、それらが修復された結果元とは異なる配列としてゲノム上に固定されたものを指す。(したがって仮に変異があっても物質としてのDNAは正常なものである。)SCEはこうした元とは異なる配列や構造を検出するものではないので厳密には”変異”を検出しているわけではない。染色分体間の組み換え現象の頻度を観ているのだ。

(注5)当然G-rich strandを認識するプローブは(CCCTAA)6、逆にC-rich strandを認識するプローブは(TTAGGG)6である。これらを各々Alexa Fluor 488(緑)や555(赤)のような蛍光顕微鏡下で鑑別可能な蛍光色素で標識したものを用いる。

CO-FISHの発明者は私の知る限り、Cornforthグループだと思う。

(注6)実際のオリジナルの方法は片方のプローブだけを用いている。これだと片方の染色分体テロメアしか染められない。分体間の交換があると、両方の分体に同じ色のシグナルが出る。

 

 

 

ジフテリア治療薬の枯渇

昨日号のサイエンス誌に"Life-saving diphtheria drug is running out: Two children's deaths in Europe spur search for new sources of antitoxin"という記事が出ている。欧州でジフテリア抗毒素血清の不在によって子どもが死亡したという事例だ。

先進国ではジフテリアという病気は稀となっている(注1)。それは効果的なワクチンが存在するからだ。しかしこの死亡した3歳児の家族はチェチェン共和国ロシア連邦)からベルギーに移住していて、この女児はジフテリアワクチンの接種は受けていない。しばらく前ならばこの女児は抗生物質と抗毒素血清の治療を受けられたはずだが、現在ジフテリア抗毒素血清はベルギー国内はもとより全欧州でも十分な量がない。医師らは欧州疾患予防管理センター(ECDCストックホルム)に問い合わせた結果、来院から6日後にオランダから抗毒素血清が到着した。しかしもはや手遅れで女児は死亡した。

欧州でのジフテリアの発生は稀である。しかし近年のワクチン接種率の低下によって様々な”古典的”感染症の危険が高まっている。実際2,015年にもスペインで子どもが発症し死亡している。WHOはウマを免疫して作るジフテリア抗毒素血清を必須薬品に指定している。しかしその市場規模があまりにも小さいため、企業が消極的なのだ。ウマを用いることにも反対論があり、細胞培養による抗毒素抗体の生産の試みも大学などで始まっている。これらはPETA(動物の倫理的扱いを求める人々の会)から資金的支援を受けたものだ。細胞培養による生産では、純度が高くヒト型の抗体を得ることができる。動物愛護の問題もさることながら、こちらのほうが質的にも望ましいことは明らかだ。

ジフテリア抗毒素血清はベーリングによってその効力が確かめられた。これによりベーリングは1,901年の(第1回)ノーベル医学生理学賞を受けた。その後ワクチン(DPT)接種により発生数が劇的に減少した。このためジフテリア抗毒素血清の生産は減り続け、欧州では現在ブルガリアの一社のみによって生産が続けられている。欧州外ではロシア、インド、ブラジルで生産されているものの、血液製剤への厳しい輸出入規制のため国外で簡単に入手することはできない。

こうした状況は米国も例外ではなく、1,997年以降国内で認可された生産業者によって作られたものはもはや存在していない。それでも年間3例程度の需要があるので、ブラジルの研究所からInvestigational New Drug(IND)の名目で輸入されたものを使用しているのが実情だ。要するに名目は研究薬だ。

細胞培養による抗体生産を行っている施設の一つがMassBiologicsマサチューセッツ大学の一部)。これまで上記PETAの資金援助を受けていたが、ヒトへの投与の段階(つまり治療試験)では支援打ち切りとなってしまった。その理由は明らかで、これまでの段階よりも多額の費用を要するからである。”多額”といっても必要な費用は1,000万ユーロ(12億円程度)というから大した金額ではない。

この”市場規模”の問題は世界の公衆衛生の最大の敵である(注2)。この記事で明らかにされたのは、この”市場規模”の問題が途上国のみならず、先進国でももはや無視できないということだ。

 

(注1)ジフテリアはグラム陽性桿菌Corynebacterium diphtheriaeジフテリア菌)によっておこる上気道粘膜疾患。国立感染研のページに概要がよくまとめられている。これをみるとジフテリアとその類縁疾患も、他の多くの感染症と同様に動物(特に家畜)が感染源になりうることが記載されている。

(注2)このことは最も感染症の脅威に曝されている熱帯地域の国々での公衆衛生に現れている。さらに先進国も含んだ典型的かつ深刻な問題として、製薬企業の抗菌物質開発への消極性があげられる。このことについては何度か議論している

ドランプ政権下でのFDAの行方

ネイチャー最新号(新年の最初の号)にトランプ新政権下での食品医薬品行政の変更の可能性についての記事が出ている。

食品医薬品行政で問題になるのは、例えばゲノム・エディティングによって作出された家畜の新品種の承認の可否であるとか、幹細胞技術の臨床応用の可否とか、あらゆる新技術によって生み出されてくる食品や医薬品の審査と認可だ。トランプ氏の意図は業界の国際的な優位性を確保するという”ビジネス上”の理由を考えていると思うが、実際には患者や患者団体からの強い要望があることも認識したい。

こうした課題に対処するためには食品医薬品局(Food and Drug Administration、FDA)の新たな長官を任命する必要がある。しかしこれが滞っている。トランプ氏が誰かを指名し、かつこれが上院で承認されるまでは製薬企業は動きがとれないのだ。

以下ネイチャーが列挙したFDAの課題を要約し、自分の考えも付け加える。

⒈ 迅速な医薬品の承認(注1)

FDAは迅速な医薬品の承認を要望する圧力とデータとの板挟みにあっている。ことのおこりは2,016年にSarepta Therapeutics(Cambridge、MA)が開発したデュシェンヌ型筋ジストロフィーの薬だった。ここで提出されたのは僅か12名の子どものデータで、症状の進行への効果ではなく、単に重要なタンパクのある程度の上昇を見ただけであった。この状況にFDAの審査官は当惑したのだ。しかしこの薬は承認された。

この事例は業界と患者の双方に疑念を持たせることになった。FDAはいかなる基準で新薬を審査するのか? FDAは業界と患者の双方から強いプレッシャーを受けている。 

⒉ 幹細胞臨床

2,014年と2.015年にFDAは幹細胞を用いた治療を規制する方針を打ち出している。しかし多くの医師・研究者によって熱望されている幹細胞治療プランは570件(あるいはそれ以上)にのぼる。しかし一方で、多くの研究者は拙速による”失敗”は最終的には幹細胞治療全体を著しく遅らせる原因となるので慎重にことを運ぶよう希望している(注2)。

⒊ ゲノム・エディティングによって作出された動物

既に本ブログでも何度か取り上げたが、米農務省(USDA)はエディティングによって作出された作物(植物)については、それらを審査の対象外とすることを決定している。しかしこの同じ件につてFDAは未だに方針を発表していない。オバマ(現)政権は2,015年7月に規制の見直しの指示を出したにも関わらず、未だに方針は出されていない。

⒋ 複雑な臨床検査への規制

2,014年にFDAは議会に対して複雑な臨床検査への規制の拡大をおこなう方針であることを伝えている。この意味するところは、近年確立された高度で複雑な情報を基にした疾患(特にがん)の診断法に関する規制だ。これは従来のような販売される診断キットへの審査・規制ではない。臨床検査室での検査プロセス自体への規制なのだ。NIH所長のフランシス・コリンズは、こうした規制が存在しないと悪徳ないし低質な検査業者が跋扈し、それは最終的には患者を害することになると警告している。

⒌ 薬の適用外使用

これもまた重要な問題である。薬は通常対象疾患を限って厳密な治療試験(治験)が行われる。治験というものが患者を用いて行われる以上、その規模を無制限に拡大するわけにはゆかない。ある薬が治験で効果が確かめられた対象疾患以外にも有効であることは多い。このことは特に抗がん剤において顕著である。異なるがんが同じ発がん経路によって生じることが多いからだ。この件に関しても業界と消費者(この場合は医師と患者)とのせめぎ合いがある。

 

良くも悪くも米国ではトップの考え方に依存する。この場合のトップとは大統領とFDA長官の両方である。トップが代わってもつつがなく業務が遂行される日本の役所とはだいぶ状況が違う。

それにつけても米国の規制当局は現場の進歩にキャッチアップすることに積極的だ。こうした役所にも博士号をもった人々が多く働いている。我が国もいい加減に法学部出身者の偏重はやめにして、専門家を重用したほうが良い。科学的知識抜きではあらゆる政策決定はもはや不可能なのだ。

 

(注1)医薬品審査の速度についてだが、現在世界でもっとも速く審査が行われているのは日本である。この点に関しては、2,004年に設立された医薬品医療機器総合機構(PMDA)の組織デザインが優れていたと考えられる。PMDAに関しては別途論じてみたい。

(注2)この”拙速論”は新技術が登場するたびに浮上してくる。導入の初期段階での失敗、特に不作為による失敗は大きな反発を招く。ことを慎重に進めることは最重要である。

NBAと大学のサラリーキャップ

米国のメージャースポーツでは各リーグに所属しているチーム間の戦力均衡を図るために、所属選手の年棒総額に上限を設けていることが多い。

その典型的な例がNBA(National Basketball Association)だ。一昨年のリーグチャンピオンシップの覇者、ゴールデンステイト・ウォリアーズGolden State Warriors, Oakland, CA)はステフ・カリー(Stephen Curry)を始めとする多くのスターを抱える超人気チームだ。今シーズンはケビン・デュラント(Kevin Durant)がサンダー(Oklahoma City Thunder, OK)から加わったため、さらにスター揃いのチームになった。しかしこのスーパースター達のサラリーを賄うために中堅選手達の年棒が不足気味となってしまった。サラリーキャップによりチームの年棒総額に上限があるためだ。このためスター達の脇を固める重要な選手の何人かがチームを去ることになった。これが今シーズンのウォリアーズのウィークポイントだと指摘されている。(現時点でのレギュラーシーズンの順位は西カンファレンス1位を保っているが。)

算定基準にしたがって各チームの年棒総額は多寡があるが、今シーズンは概ね7,000万ドル/チーム(円換算で約80億円)であるらしい。選手一人あたりでは平均5−6億円ということになるか。

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メンフィス・グリズリーズの試合前。これで幾ら?)

 

以上はチームの年棒総額に制限があるという話。以下の話は少し違うがやはりサラリーに上限を儲けようという話だ。

米国の大学では、この10年以上にわたるNIHの緊縮予算のため、若手研究者のグラント獲得率が低迷している。初めてR01グラントを獲得するときの年齢がどんどん上昇している。ふつう大学では生命科学系の教員のポジションはNIHグラントの獲得に依存しているので、若手研究者が教員ポジションに定着できないケースが多い。この状態は次代の科学研究を担う世代を育てるという国家レベルでの目標もさることながら、各大学における教育、研究を担うスタッフの不足として弊害が出てきている。

この状態を改善するためのアイデアUCLAChristopher J. Evans教授がネイチャー誌上で提言している。この人物は脳科学研究所(Brain Research Institute)の所長の職にある。上のような問題を解決するために、教授職(Full Professor)のサラリー(年棒)上限を35万ドルに設定することを提案している。これにより総額約175億ドルが浮いて出てくる(2,014年の実績で計算)。この資金で年棒20万ドルのアシスタントプロフェッサーを800人程度雇えるとしている。このための根拠として、現在のカリフォルニア大学(UC)システムの給与水準が高すぎるとしている。比較の対象としているのはNIHであるが、そこでは年棒の上限が18万5千ドルであるという。このUCとNIHの金額そのもの、さらにその両者の間の大きな落差にも驚かされる。一方は高すぎて、他方は安すぎると思う。おそらくUCの教授職はそれほどまでに高いステータスと魅力を持っていること、そのため競争が激しいのだと思われる。

提言している本人はいわゆる部局長の職にある人物なので、こうした大学の運営に関わる諸問題についても影響力があると想像される。したがって年棒はおそらく50万ドルほどにもなるのだろうか。Assistant professor(講師クラスに該当)の20万ドルという金額も日本的基準からするとかなり高い。カリフォルニアの物価水準、給与水準は他の州に比べるとかなり高めであることは理解できる。しかし資本主義的原理、競争原理の貫徹した国柄とはいえ、日本的感覚からすると驚くべき額だ。

 

           カリフォルニア大学システム    NIH*

           現行     提言        現行

Professor       >35万ドル   35万ドル(上限)  18万5千ドル(上限) 

Asssitant professor   20万ドル  20万ドル

 

*: NIHのポジションの名称は不明。

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 (UCLAキャンパス)

 

 

テロメア維持の機構:(4)ATRXはテロメアDNA複製を”助ける”?

前回からの続き)

すでに繰り返し書いたようにALTの腫瘍では正常なATRXタンパクが発現していない。ALT細胞株にATRXタンパクを強制発現すると、ALTの諸性状が消失することは前回述べた。

同じような状況でのテロメア長の変化についてはRichard Gibbonsのグループが2,015年に発表している。ここではALTの細胞株であるU2OS細胞にテトラサイクリンで発現が誘導されるシステムを作り、ATRXタンパクを発現させている(注1)。U2OS細胞はテロメラーゼを発現していないので、もしALTが機能しなければ、テロメア短縮が起こるはずである。結果は期待通りでATRXの発現誘導後、約一週間でテロメア長がサザンブロット上で短縮が認められ、17日後には初めは当初50kb程度あったテロメアが20kb以下になっていた。論文にはこの期間の正確な細胞分裂の回数は記載されていないが、毎回の分裂でkb単位のテロメアが短縮していることになる(注2)。

このデータを受け入れるならば、ALTにATRXが必須であることが”完全に”証明されたわけだ。

テロメアDNAにおけるDNA複製の異常

さて前述したようにテロメアDNAはG4を容易に作る。G4の立体構造はDNA複製におけるC-rich strand鎖の伸長(DNAポリメラーゼの進行)を阻害するので、当然複製フォークのブロックを引き起こすことが予想される。このようなテロメアDNAの複製阻害は当然細胞にとって有害である。

テロメスタチン(telomestatin、TMS)はG4に結合し、G4構造の安定化を促すことが知られている。ATRX遺伝子をノックアウトしたマウス神経前駆細胞は、TMSに対して高い感受性を示すことが明らかにされている。こうしたデータは、ALT細胞ではテロメアに生じる”G4構造の生成またはその処理”に何らかの欠陥があることを示唆している。

これまでに複数の研究グループがATRX欠損細胞では、DNA複製が渋滞(stall)していることを見出している(注3)。これらは同時にDNA複製障害が引き起こす反応を伴っていた。上のGibbonsらの論文ではこのテロメアDNAの複製異常の問題をさらに追及している。彼らはDNA fiber analysis法によりDNA複製の進行をトレースしている。その結果、ATRX欠損細胞では複製の渋滞が高頻度で起こっていた。但しこの論文で、はこうしたDNAの複製異常がテロメアに特異的に生じているかは明らかにされていない(注4)。

ALTではテロメアでのDNA損傷が増加しているのか?

以前Reddelグループの仕事で、ALT細胞ではテロメアでのγ-H2AXシグナル(telomere dysfunction-induced foci、TIFs)が高頻度に見られることを紹介したγ-H2AXの本体はマイナーなコアヒストンH2AXがリン酸化されたものだ。このリン酸化はATM、ATR、DNA-PKといったキナーゼによってなされる(注5)。だからALTではテロメアでDNA損傷が高頻度に生じていると考えるのはとても自然な理解だ。DNA損傷の帰結としてテロメアの構造の異常が生じるはずだが、実際マウスの筋原細胞でそのことは示されている

これと関連してDNA損傷誘導系(DNA damage-induced response、DDR)がALTに必要であるというデータも重要だ。ATR阻害剤でALT細胞を処理すると細胞死がおこるという報告がある。このデータはALTの引き金がDNA損傷で、かつDDRの帰結としてHRが働くという説を支持している。Gibbons論文では、Hela細胞(ATRX+)でG4を安定化させる他の化合物(pyridostatin、PDS)の処理でC-circleが増える。C−circleの出現はHRが働いていることを一応示している(注6)。

MRN複合体は二本鎖DNA断裂の修復に大きな役割を果たす。この複合体のうちのMRE11タンパクはHRの最初のステップを起こす分子である。このMRNタンパクがALTが起こるのに必要であることも知られていた。GibbonsらはATRXタンパクとMRNタンパクが結合することを示した。さらにATRXの発現している細胞では、ATRXとMRNが同じ場所に観察され、かつこれは核内のテロメアとは異なる場所であった。すなわちATRXによるテロメアからのMRNの隔離だ。ATRXがないALTでは、MRN(およびそれを含む複合体)がテロメア配列に容易にアクセスできることが組み換え頻度が上昇する原因の一つだと考察している。

これらのデータをまとめてみる。ALTではテロメアでのG4構造が複製の障害となり、この障害そのもの、あるいはこの障害の帰結としてDNA断裂が生じる。これらによって惹起されるDDRによってHRが発動される。これが現在のALTのイメージだ。

ATRXの役割はクロマチン化でG4形成を抑えること?

ALTが開始されるために必要な役者が一通り揃ってきた。最初の疑問に戻ろう。ATRXはどのようにしてALTを抑えているのだろうか? 

既に述べてきたように、ATRXはDAXXと複合体を作りヒストンH3.3をテロメアDNAに取り込ませ、クロマチン形成を行う。ここでDAXXは実際にH3.3と結合するシャペロンだ。In vitroではDAXX単独でもこのクロマチン化がおこるので、ここでのATRXの役割は今ひとつ明らかではない。クロマチン化の低下がALTの原因であるという考えは、別の論文のデータも支持している。そこでは別のヒストンシャペロン(ASF1aおよびASF1b)をノックアウトした際に、ALT様の現象が観察されている。

ATRX自体にはG4構造を解く活性はないらしく、ATRXは機先を制してH3.3を含んだクロマチンを作ることで、間接的にG4レベルを抑えていると思われる。

テロメアにおけるATRXの働きのモデル

ATRXとALTとの関係を示すと次のようになる。これはGibbonsらの論文のモデルとほぼ同じ。

 

(正常細胞)ATRXがH3.3の取り込みを促す→クロマチン形成によるG4形成の阻止→正常なDNA複製

(ALT細胞)ATRXの不在によるG4の形成→DNA複製の阻害→DNAの断裂→ATM系の作動→HRの進行

 

このモデルの問題点には次のようなものがある。

まず第一に、ATRXがいかにしてテロメアDNAにたどり着けるかということだ。もしATRXのテロメアへの局在がDNA複製とカップルしていると仮定するならば、ATRXがテロメアにアクセスするために他の分子への結合能が必要である。DNAクランプであるPCNAはATRXを局在させる分子かもしれない。実際ATRXにはPIP−boxPが存在している(注8)。しかし一方で既に紹介したとおり、ATRXはG4に親和性をもつ。このことは、GibbonsモデルのようにATRXがない場合に限りG4ができると考えるよりも、先にG4ができてからATRXがそこに来ると考えたほうが自然かもしれない。しかしこの場合はG4自体の解消はどのタンパクが行うのかという問題が残る。

 

続く

 

(注1)U2OS細胞は骨肉腫の細胞で、ALTの細胞としては最もよく用いられている。その大きな理由はこの細胞が正常なp53を発現していることで、特にDNA損傷を受けた後の細胞の反応を観察するのに適しているからだ。

(注2)この短縮のスピードは不死化していない正常細胞でのテロメアの短縮速度よりもずっと速いように思う。一度ALTを獲得した細胞ではATRXの発現によりテロメアの短縮化が何らかの理由で速く起こるのかもしれない。しかしこのサザンブロットのパターン(Fig. 1g)は少し奇異だ。それは実験開始時に既にテロメアのサイズが比較的狭い範囲に限られていることだ。これは典型的なALTのパターンではなく、また既に何度も報告されているU2OSのそれとも異なっている。このデータを全く信用するのは少し早いかもしれない。

(注3)”stall"の適当な訳語がわからなかったので”渋滞”を使ってみた。この場合のstallは複製フォークを停止させるが、完全にその進行能を失わせるでもない。複製フォークの停止状態が継続すると、やがてそのフォークは”collapse”(崩壊)を起こす。これはその部位でのDNA鎖の切断が起こることだが、そこではHR等の修復機構が作動するのでいずれ複製が再始動する。個々の複製フォークについてはその運命はわからない。DNA複製が再開されるか崩壊するかはこの”渋滞”の状態ではわからない、そのような状態が"stall"という語に込められている。

(注4)DNA fiber analysis法では通常ゲノム上のどの配列でその複製フォークが働いているかはわからない。FISHと併用することでそれが可能かどうかは私にはわからない。”わからない’という意味は理論的にはそれは可能だが、定量的に観察可能な状態にできるかどうかは判断できないということだ。

(注5)しかしここではそれがcircleがどうかは特定できない。つまり染色体外に出てきたテロメア配列が環状のものか、または直鎖状のものかはここで用いられているスロットブロットでは定かではない。こうしたDNAの形状は、損傷または修復の起こり方を推定する上で有用な情報となる。残されたDNAの配列も一般的には有用な情報を与えてくれるが、ことテロメアに関しては単純な繰り返し配列なので、これはあまりinformativeではない。

(注6)ATRXとATRは略称が似ているが全く異なるものだ。ATRXはX-linked Alpha Thalassaemia mental Retardationに由来して、遺伝子産物の実体は約250 kdのATPaseタンパクだ。ATRはAtaxia Telangiectasia and Rad3-relatedの略でDNA損傷誘導反応の核となるチェックポイントを構成する約300 kdのキナーゼだ。

(注7)G4を解くヘリカーゼとしてFANCJやBLMが知られている。FANCJ欠損細胞ではTMSに対する感受性が顕著に上昇することが知られている。このことはFANCJがin vivoでG4を解消していることを示すが、実際にテロメアのG4の解消に寄与しているかどうかは不明だ。

(注8)PIP-boxはPCNAに結合する多くのタンパクで存在が知られているPCNAへの結合能を担うモチーフである。ATRX配列上にもPIP-boxが認められるが、ATRXがPCNAと結合するかどうかは調べられていない。